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11月23日の土佐街道~日本最強の高取城跡紅葉散策-1

11月27日      土佐街道~日本最強の高取城跡紅葉散策-1
           近鉄駅フリーハイキング 歩程約9㎞ 
此の日は、知人の・K場さん・Y田さん・I 田さんと4名で「阿波野青畝句碑巡り
と高取城祭り 7㎞」の予定が、急遽、高取城跡の紅葉狩りに変更して楽しんだ。
駅前~タクシーに乗り、壺坂寺の上の駐車場迄行き、そこから紅葉を愛でながら
歩いて高取城跡へ登り、帰りは宗泉寺~砂防ダム公園へ降りるコースで歩いてみ
る事にした。先に高取城跡の紅葉狩りについては、綺麗で清々しい気持ちになっ
たので別途UPした。此の日の私の万歩計は、22085歩で約13.2㎞歩いた事に・・
当初予定は、阿波野青畝句碑巡りと高取城祭り、と言う事だったが大幅に変えて
タイトルも 土佐街道~日本最強の高取城跡紅葉散策 と変えてみました。
壺阪山駅(10:05)~タクシーで壺阪寺駐車場(1500円)~高取城跡(昼食)~
国見櫓~猿石~宗泉寺~上子島砂防ダム公園・阿波野青畝句碑~阿波野青畝生家
~植村家長屋門~高取児童公園・城祭り会場~土佐恵比寿神社~壺坂山駅
志都美駅~香芝駅~近鉄下田駅乗換
香芝駅~鹿島神社
鹿島神社
祀ってあるのは、「武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)」で、ふつう「鹿島大明
神(かしまだいみょうじん)」という。この神社は、承安(しょうあん)1(1172 )
年に源義朝(みなもとのよしとも)の家来であった鎌田小次郎政光が常陸国(ひたち
のくに)(現茨城県)の鹿島本宮の神を連れてきたのが始まりという記録がある。伝
承ではその時村人は塩餅(しおもち)や押し飯(おしめし)を作り、大喜びでお祭り
したという。鹿島神社には、昔から「結鎮座」(けいちんざ)と呼ばれる氏子(うじ
こ)の集団(宮座)があり、鎌倉時代の初期から記録が残されている。これは、約80
0年間にわたる独特の伝統をもって今も生き続けている。日本の古い神社や寺には貴重
な古文書がたくさん伝わっているが、民間の宮座記録としてはこの「鹿島神社文書」
(かしまじんじゃもんじょ)が最も古い。昭和37年には奈良県指定文化財となり、現
在は奈良国立博物館で保管されている。
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壺坂山駅前~タクシーで壺阪寺駐車場へ
壺阪寺駐車場でタクシーを降りてスタート
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※壺坂寺・・・HPより
創建は寺蔵の『南法花寺古老伝』によると、大宝3年(703)年に元興寺の僧、弁基上
人がこの山で修行していたところ、愛用の水晶の壺を坂の上の庵に納め、感得した観
音像を刻んでまつったのが始まりといわれる。境内からは当時の藤原宮の時期の瓦が
多数出土している。その後、元正天皇に奏じて御祈願寺となった。
平安期には、長谷寺とともに定額寺に列せられ(847年)、平安貴族達の参拝も盛んに
なり、ことに清少納言は「枕草子」のなかで「寺は壷坂、笠置、法輪・・・」と霊験
の寺として、筆頭に挙げている。また、左大臣藤原道長が吉野参詣の途次に当寺に宿
泊したという記録も残っている(1007年)。
この頃、子島寺の真興上人が壷阪寺の復興にあたり、真言宗子島法流(壷坂法流)の
一大道場となり、三十三所の観音霊場信仰とともに、寺門は大いに栄えていった。
その後数度の火災にあうが、その度に山僧の合力により再建がなされてきた。
しかし、南北朝や戦国の動乱に巻き込まれ、当時庇護を受けていた越智氏の滅亡とと
もに壷阪寺も衰退していく。一時は山内に三十六堂、六十余坊の大伽藍を配していた
が、境内には三重塔と僅かな諸坊を残すだけとなった。
近世の壷阪寺は豊臣秀吉の弟秀長の家来本多利久が高取城主となり、本多氏とその後
明治の廃藩置県まで続く藩主植村氏の庇護を受け復興していった。明治の初め、盲目
の夫沢市とその妻お里の夫婦の物語、人形浄瑠璃『壺坂霊験記』が初演され、歌舞伎、
講談、浪曲となり壷阪寺の名は大きく世に広まっていった。(壺坂霊験記)
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壺阪寺を越えて
高取城跡へ向かう
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500羅漢石仏への入り口
道路が封鎖されて通れないと言う
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高取城跡迄約2.2㎞
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入口に来た
高取城跡迄 1.3㎞
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壺阪口門跡
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本丸へ200m迄来た
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石垣の苔が良い
大手門跡
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十三間多門跡~本丸へ向かう
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此処の石垣も良い
日本三大山城の説明看板が・・・
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十五間多門跡
見事な大木戸石垣
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此処を曲がると
「本丸」の看板をクマが持っている
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本丸広場を横目に
先ず天守跡(三等三角点584m)へ登る
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流石に
眺めが良い
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天守跡を降りると
本丸広場、井戸跡も・・・
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此処、高取城跡 本丸広場で(昼食)
高取城
高取城(たかとりじょう)は、奈良県高市郡高取町高取にあった日本の城である。
別名、高取山城。江戸時代は高取藩の藩庁であった。国の史跡に指定されている。
城は、高取町から4キロメートル程南東にある、標高583メートル、比高350メートル
の高取山山上に築かれた山城である。山上に白漆喰塗りの天守や櫓が29棟建て
並べられ、城下町より望む姿は「巽高取雪かと見れば、雪ではござらぬ土佐の城」
と謡われた。なお、土佐とは高取の旧名である。
曲輪の連なった連郭式の山城で、城内の面積は約10,000平方メートル、周囲は約
3キロメートル、城郭全域の総面積約60,000平方メートル、周囲約30キロメートルに
及ぶ。日本国内では最大規模の山城で、備中松山城(岡山県)・岩村城(岐阜県)と
ともに日本三大山城の一つに数えられる。元和元年(1615年)の一国一城令の際
も重要な山城として破却を免れ、現在に至るまで石垣や石塁が残されている。
歴史
南北朝時代、南朝方であった越智邦澄が元弘2年(正慶元年、1332年)に築城した
のが始まりと伝えられている。当初は越智氏の本城である貝吹山城の支城として
機能していた。越智氏の支配が長く続き、戦国時代には高取城が越智氏の本城と
なっていたようである。貴重な城郭資料として昭和28年(1953年)3月31日に国の
史跡に指定された。平成18年(2006年)に、日本100名城に選定された。
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昼食後本丸広場を散策して大手門へ
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此の続きは、
11月23日の土佐街道~日本最強の高取城跡紅葉散策-2 として
       下記のメインブログへ詳細を投稿します。
       https://taharas-amami-nara.blog.ss-blog.jp/
続きは、高取城大手門跡~帰り道
土佐街道 壺阪山駅方面へ
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松ノ門跡
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国見櫓へ120mの表示、
行って見る事に・・・景色が良い
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帰ってくると80mの表示
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二の門跡には池が・・・
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猿石が鎮座・・・明日香村からの登山道と交差、我々は土佐街道へ
猿石
高取城二ノ門外、城下町に下る大手筋と岡口門の分岐点にあり。制作は、飛鳥
時代の斉明朝あたりと推定される。高取城築城の際、石垣に転用するために明
日香村から運ばれたと言われている。 明日香村檜隈(ひのくま)の吉備姫王
(きびのひめみこ)の墓の域内にある石仏像と同類のものである。 郭内と城
内の境目を示す「結界石」とした説もある。
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少し下ると
史跡 高取城址の大きな石碑が
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其処から更に下ると聖天さんの所で左に入ると宗泉寺への入り口が・・・・
島流社(聖天さん)の祠?
商売繁盛の守り本尊として信仰されている。生駒聖天の元宮との説も?
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聖天さんを左へ入ると宗泉寺
宗泉寺
高取藩主植村氏の菩提寺である。もともとは植村家政の下屋敷であった。
元禄11年(1698年)に寺として創設。植村氏累代の墓碑がある。
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上子島砂防ダム公園・阿波野青畝句碑
上子島砂防ダム公園
高取川の上流、ちょうど高取城への入口に当るところに上子嶋砂防公園があります。
ハイキングシーズンには、たくさんの方々が、高取城へ上る際の最初の休憩地点と
して休憩されています。
この砂防公園は、地元の保全ボランティアの皆様の活躍により、梅、桜、あじさい
等、通年様々な花々が我々を迎えてくれます。また、水が綺麗なため、6月中旬頃
には、ほたるも見頃になります。
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阿波野青畝句碑
「満山の つぼみのまゝの 躑躅かな」
(まんざんの つぼみのままの つつじかな)
            これから躑躅の花が、一杯に咲こうとしています。
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水車小屋
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阿波野青畝生家
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植村家長屋門
旧大手門の通りに面しており、旧高取藩の筆頭家老屋敷。県重要文化財に指定
されており、なまこ壁が城下町の雰囲気を漂わせる。
江戸末期、文政9年(1826年)の建立で、門口39.1m、奥行4m、むね高5mの規
模で一重入母屋瓦葺き造り、腰板張りの部分はなまこ壁。近代武家屋敷表門の
遺構を残している貴重な建物。(現在も居宅として利用されている)
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※高取町の土佐街道
高取町では壺坂寺まで通じる長い長い町並みが続く。そのうち「札の辻」の交差
点までの道を地元では土佐街道と呼んでいる。明日香に都があったころ、土佐
の国から都造営のために連れてこられて故郷へ帰れなくなった人たちが、望郷
の思いからこの地を「土佐」と呼ぶようになったといわれる。両側に水路がある
狭い道に沿って、高取城の城下町に由来する古い町並みが続いている。
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高取児童公園・城祭り会場
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※土佐街道の敷石
阪神電鉄国道線の敷石については、意外に神社仏閣で再利用されたという話題があり
ません。それもそのはず、大部分は線路の撤去を行わないままその上にアスファルト
を被せてしまったためのようです。ところが1995(平成7)年の阪神大震災で国道2
号線の路盤が大きく損傷し、これを改修する際に軌道敷のレールと敷石が掘り出され
ました。そして、その一部が壷坂寺で有名な奈良県高取町に引き取られ、街中の土佐
街道に敷設されました。近鉄壷坂山駅近くの土佐街道2キロほどの道路の路肩部に阪
神電鉄国道線の敷石が2列で敷設されて、良い景観となっています。

土佐 恵比須神社
土佐街道に「土佐町の由来」と題する案内板があり、そこにはこう書かれています。
六世紀の始め頃、大和朝廷の都造りの労役で古里土佐国を離れこの地に召し出され
たものの、任務を終え帰郷するときには朝廷の援助なく帰郷がかなわず、この地に
住み着いたところから土佐と名付けられたと思われる。故郷を離れて生きていく生
活を余儀なくされた人達のたった一つの自由な意思は古里の名を今の場所につける
ことであった。
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壺坂山駅
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近鉄の特急車両 青のシンホニー
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樫原神宮前駅で
近鉄の特急車両
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