9月18日の大山崎町の歴史探訪&サントリービール工場-1
9月23日 9月18日の大山崎町の歴史探訪&サントリービール工場-1
歴史探訪の会 & ビール工場見学
此の日の参加者は18名、歴史探訪の後のビール工場見学は8名と少人数になったが実り
の多い楽しい歴史探訪の会ハイキング&サントリービール工場見学となりました・・・
コース 大山崎ふるさとガイドの会様の2名のガイドさんが歴史探訪をガイドして下さった。
JR山崎駅(受付・スタート10時)~離宮八幡宮~関大明神~宝積寺(閻魔堂・本堂拝観)~
竹林のこみち経由~山崎聖天~桜の広場(昼食休憩)~瓦窯跡経由~歴史資料館(解散)
解散後希望者8名でサントリービール ビール工場へ 工場見学&試飲へ
此の日の私の万歩計は、14636歩で約8.7km歩いたことに・・・
志都美駅
曇り空で葛城山も二上山も見えない
JR山崎駅(受付・スタート)
この奥に妙喜庵がある
JR山崎駅前に有る妙喜庵(みょうきあん)
千利休作の日本最古の茶室 国宝「待庵」が有る事で知られる。
妙喜庵は京都府乙訓郡大山崎町にある仏教寺院。山号は豊興山。妙喜禅庵とも称する。
江戸時代一時地蔵寺の塔頭であったが、現在は臨済宗東福寺派に属する。室町時代の
明応年間(1492年 - 1501年)の開創。開山は東福寺開創聖一国師法嗣・春嶽士芳。
※「待庵(たいあん)」国宝。
日本最古の茶室建造物であると同時に、千利休作と信じうる唯一の現存茶室である。
大山崎町歴史博物館にレプリカ?が設けられており外廻りから見る事が出来る。
離宮八幡宮(りきゅうはちまんぐう)
離宮八幡宮は京都府乙訓郡大山崎町にある神社。旧社格は府社。石清水八幡宮の元社
にあたる神社として知られる。
貞観元年(859年)に清和天皇が、神託により国家安泰のため宇佐神宮から分霊し平安京
の守護神として奉安することとし、その時に九州に使わされた大安寺の僧行教が帰途山崎
の津(当時の淀川水運の拠点港)で神降山に霊光を見、その地より石清水の湧いたのを帰
京後に天皇に奏上したところ、国家鎮護のため清和天皇の勅命により「石清水八幡宮」が
建立された。その後、嵯峨天皇の離宮「河陽(かや)離宮」跡であったので社名を離宮八幡
宮とした。また、貞観年間に神官が神示を受けて「長木」(てこを応用した搾油器)を発明し
荏胡麻(えごま)油の製造が始まったことから、日本における製油発祥地とされる。その後
「大山崎油座」の制度で荏胡麻油の販売権を独占して、多くの兵火に焼かれながらも江戸
時代まで栄えた。
しかし、幕末「禁門の変」時に長州藩屯所が山崎にあったため、攻撃を受けて多くの商家と
ともに焼失。廃藩置県により社殿のすぐ西から大阪府に割譲し、さらに1871年(明治4年)
に境内北側を国策による鉄道事業にささげ、境内はさらに縮小した。
油祖像 河陽宮故址石碑&製油発祥地碑が有る
石清水八幡宮と銘が彫り込まれた灯籠
境内でガイドの説明を聞く
離宮八幡宮を出て関大明神社へ向う
関大明神社(せきだいみょうじんしゃ)
関大明神社は、大阪府三島郡島本町にある神社。関戸明神(せきどみょうじん)、関戸大明
神とも称される。祭神は、大己貴命(おおなむちのみこと)・天児屋根命(あめのこやねのみこ
と)、または大智明神(だいちみょうじん)。島本町から京都府乙訓郡大山崎町にかけての土
地は天王山と淀川(桂川)に挟まれ古くは山崎橋も存在したことなどから交通の要衝として関
所が設置されており、関大明神社の名前の由来となっている。また、この神社自身が関所
「山崎関」(山城の関)跡地であるといわれ、関所または後に設けられた「関戸院」(関戸の院
〈せきどのいん〉)の鎮守社であったともいわれる。
創建は不詳で、水無瀬の里に置かれていたが洪水によってこの地へ移されたとも、京都へ悪
霊の侵入を防ぐためこの地に道祖神が建立されたのが起源ともされる。また、伯耆国大山の
大智明神の神輿を収めたことにより始まるという伝承もある。この地は西国街道の宿場町で
山崎宿として知られ、周辺には古い建物が散見される。
また、傍らには「従是東山城國」との石碑も存在する。古くはこの関大明神社の前に流れる小
川が摂津国と山城国の境であったといわれており、現在でもこの川にほぼ沿った形で府境が
引かれている。
※全国でも珍しいJR山崎駅・・・ホームの途中に京都府と大阪府の府境界が有る
山崎宗鑑碑
JR山崎駅から天王山へ至る、踏み切りを渡りきると、ちょうど天王山登山口にこの霊泉連歌講
跡碑と山崎宗鑑句碑が立っています。
※山崎宗鑑
山崎宗鑑は、室町幕府9代将軍足利義尚に仕える武士でしたが、義尚の陣没(延徳元年、148
9年)後に出家して宗鑑と名乗り、この大山崎に隠棲しました。大山崎油神人の繁栄や、惣中や
待衆の支えによって連歌講の中心人物になり、宗鑑はこの付近にあったとされる冷(霊)泉庵で
連歌の会を開いたり、俳句の指導をしていたとされています。また書にも優れ 宗鑑流として多く
の人々に愛されました。晩年は『新撰犬筑波集』などを発表し、俳諧の創 始者として知られてい
ます。宗鑑の自宅は大阪と京都の境目の関大明神の向かいにあったとされ、その場所の旧家
森村家には「宗鑑井戸跡」「宗鑑旧居跡」が残されています。
宝積寺へ向かう急な坂道
宝積寺仁王門前
宝積寺(ほうしゃくじ)
通称・宝寺(たからでら)は、奈良時代の724年に聖武天皇の勅願を受けて行基が開創したと伝
えられる歴史と由緒のあるお寺で、大阪府との府境に程近い大山崎町にあります。そして、この
大山崎町という場所自体が歴史的にもそしてパワースポット的にも非常に重要な意味を担って
いるのです。
昔話の「一寸法師」に登場する「打出の小槌(うちでのこづち)」。振ると、大判小判や宝物がザク
ザクと現れるというあの「打出の小槌」のモデルになったとされるものが、この宝寺に実在してい
ます。一寸法師(実際は普通の身長の男性)がここ宝寺で修行し、お寺にあった「打出」と「小槌」
のご利益で鬼を退治したことからお姫様と結婚し出世がかなったという話が、寺伝として実際に
伝わっているのです。「打出の小槌」と一般に言われますが、実は「打出」と「小槌」は別々のもの
で、「打出」は実り(福)の種を蒔くために土にさして穴を開けるためのもの、「小槌」は実り(福)を
祈願して振るためのものというのが本来であり、今でもお寺には古より伝わる「打出」と「小槌」が
保存されています。この宝寺は聖武天皇の勅願で建てられたものですが、即位以前、夢の中に
現れた龍神から打出と小槌を授けられ、それに75日間祈ったところ無事天皇に即位することが
できたことから、この打出と小槌を奉納するためにお寺を建てることになったという話が言い伝え
られています。聖武天皇の即位と秀吉の出世に(もしかしたら一寸法師の出世にも)宝寺が少な
からず関わっていたというのは興味深い話であり、金運のみならず、出世運にも多大なご利益が
あるという噂もうなずけます。
豊臣秀吉 一夜の塔
寺宝を多く有しており、建造物では桃山時代に秀吉が一夜で建てたと伝えられている「一夜の塔」
と呼ばれる三重搭が重要文化財に、本堂及び山門は京都府の登録文化財に指定されています。
宝積寺・閻魔堂・本堂拝観・豊臣秀吉 一夜の塔
美術工芸品では本堂内安置の十一面観音菩薩立像、仁王門の金剛力士像及び収蔵庫に安置
される閻魔王像と眷族像が重要文化財に指定されている。其の中でも特に日本一の閻魔王像と
眷属像は見る者を圧倒する迫力があり必見です。本堂左横にある小槌宮には大黒天が祀られ、
聖武天皇が夢で竜神から授けられたという打出と小槌で、参詣者に福徳を授けています。その
ため宝寺という別名もあり、歴史上しばしば登場するお寺で大黒天宝寺として商売繁盛のお寺と
知られています。一寸法師の説話も宝積寺から生まれたのです。
また、本堂の脇には秀吉が腰掛けて天下統一について考えたと伝えられる出世石があります。
この出世石に腰掛けると出世するというお話もあります。許可をいただければ実際に腰掛けるこ
ともできます。
竹の小路を山崎聖天へ向かう
大山崎山荘庭園で最初に建てられた建物の搭
大山崎山荘
※大山崎山荘庭園
宝寺に隣接する広大な敷地には、ニッカウヰスキーの創業に参画した実業家、加賀正太郎氏
が建てた「大山崎山荘」があり、現在ではアサヒビールが管理する美術館として、内部の貴重な
調度品や庭園なども一般に公開されています。近くには、サントリーの山崎蒸留所があったり、
邸宅が見受けられたりと、自然に恵まれた環境であると共に豊かな空気に包まれた一帯という
印象を受けます。宝寺のある地区が「銭原」というお金にまつわる縁起の良さを感じられる名前
であることもそうですが、重要な歴史の舞台になり、また歴史を形づくってきた人々と縁の深い
場所ならではの特別なパワーがこの一帯に満ちているのでは?などと思えて来てしまいます。
※加賀正太郎(かが しょうたろう)
加賀 正太郎(1888年1月17日 - 1954年8月8日)は、大正時代から昭和時代にかけて活躍した
日本の実業家。1888年、大阪市東区今橋生まれ。12歳の時に父親が亡くなり、船場にあった
江戸時代から続く実家の繊維業・米穀仲買業・両替商「富商加賀商店」を継ぐ。東京高等商業学
校(現・一橋大学)卒業後、加賀證券(のちに菱光証券に商号変更し三菱UFJ証券に合併)を設
立して社長を務めるなど多くの会社経営を行い、証券業、林業、不動産業、ゴルフ場経営、洋蘭
業などで成功した。1934年の大日本果汁(現・ニッカウヰスキー)創業にも参画。出資の70%を
構成して同社の筆頭株主だった。1954年死期を悟り、株式の散逸を防ぐためアサヒビールの山
本為三郎にニッカウヰスキー株を売却。
竹林のこみち
アサヒビール大山崎山荘美術館と観音寺(山崎聖天)を結ぶこみちです。春には対岸の
背割り堤の桜並木を眺望できます。
此の続きは、
9月18日の大山崎町の歴史探訪&サントリービール工場-2 として
下記のメインブログへ詳細を投稿します。
https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、山崎聖天~
山崎聖天
天王山麓に位置し、「山崎の聖天さん」として京阪神の人々から厚い信仰を受けて いるお寺で
す。平安時代に宇多天皇(寛平法皇)の勅願で開山されました。その後江戸時代に木食以空が
中興開山し堂塔を整えました。本堂横に聖天堂があり江戸時代には現世利益を求めた大阪の
商人の厚い信仰を受け大いに隆盛しました。豪商住友家も帰依し立派な青銅製の灯篭を寄進
しています。幕末、元治元(1864)年に起こった禁門の変の余波で全焼し、明治時代になって伽
藍が復興しました。
桂昌院寄進の釣鐘
境内の梵鐘は五代将軍綱吉の生母桂昌院から、また銅製の大灯籠は江戸時代中頃に住友家
から寄進されました。このような有力な信者を持った観音寺は富裕町人にも人気があり山崎の
聖天さんとして、近隣はもとより大阪一帯からも親しまれてきました。
山崎聖天を後に桜の広場へ向かう
桜の広場(昼食休憩)後大山崎瓦窯跡へ向かう
※大山崎瓦窯跡
平成16年(2004)12月の調査の結果で平安宮の所用瓦を焼成した平安時代前期の瓦窯が6基、
まとまって発掘されました。当時、平安京周辺各地の多数の瓦窯で大量の瓦を生産し、平安宮・
京の造営を支えたものと考えられ、大山崎瓦窯もその一つとされます。
ここで製作された瓦は平安宮朝堂院をはじめ、嵯峨院、河陽離宮に供給されました。2006年
(平成18年)には、重要性が考慮され国の史跡に指定されています。2008年には、7番目の窯が
発見され、2009年には、更に8番目の窯が北約6mの崖で瓦窯の燃焼室の焚口が見つかってい
ます。大山崎瓦窯跡の石碑が立っている真向かいに、天王山登山口と観音寺へ続く道がある。
大山崎町歴史資料館へ向かう
大山崎町歴史資料館(解散)
大山崎。それは天王山が淀川へ最もせり出した場所を意味します。その自然の関門ともいうべき
地形から、日本の東と西を結ぶ交通の要衝として古代以来発展してきま した。当歴史資料館の
常設展では、これまで歩んできた歴史的特色を踏まえ、7つのコーナーを設けて町の歩みを紹介
しています。まず、エントランスルームでは、年表、文化財地図パネル等で町の歴史概観ができま
す。そして竹林のプロムナードをぬけると、そこには大山崎の名水にちなむ井戸ビジョンがあり、映
像で各時代の特色ある文化・歴史を紹介し、次のコーナーへの興味を高めます。展示室は5つの
コーナーに分れ、古代コーナー、中世コーナー、山崎合戦と待庵・利休のコーナー、近世コーナー
という構成になっています。各コーナーとも実物展示のほか、解説ビデオやイラスト、模型や複製
などを用いて、楽しみながら歴史学習ができるように心がけた展示となっています。
サントリービール京都工場見学&試飲へ向かう
阪急大山崎駅⇒西山天王山駅から歩いてサントリービール京都工場へ
サントリービール京都工場見学・試飲
1970年大阪万博のサントリー館の展示ホールのモニュメントを移設・・・
※サントリー館の吹き抜け展示ホールには、高さ 12mのステンレス製の巨大な モニュメント
「御酒口(みきぐち)」が展示された。「御酒口」は昔、祝い事の際、神酒の飾りとして使用され
た竹製の装飾品で、そのシンプルな造形美をヒントにして制作されたもの。モニュメントは数
種の照明に照らされ、静かな音楽が流れる中で、幻想的な雰囲気を醸し出していた。
試飲 三種類のビールがf試飲出来る様になっていた。
下戸の私は、二種類で満足、三種類目は飲めずにリンゴジュースで締めた・・・
帰りは
ほろ酔い気分で工場からのバスで駅へ送られ、梅田経由で帰りました。
自宅へ帰り着いたのは午後6時を過ぎていた
歴史探訪の会 & ビール工場見学
此の日の参加者は18名、歴史探訪の後のビール工場見学は8名と少人数になったが実り
の多い楽しい歴史探訪の会ハイキング&サントリービール工場見学となりました・・・
コース 大山崎ふるさとガイドの会様の2名のガイドさんが歴史探訪をガイドして下さった。
JR山崎駅(受付・スタート10時)~離宮八幡宮~関大明神~宝積寺(閻魔堂・本堂拝観)~
竹林のこみち経由~山崎聖天~桜の広場(昼食休憩)~瓦窯跡経由~歴史資料館(解散)
解散後希望者8名でサントリービール ビール工場へ 工場見学&試飲へ
此の日の私の万歩計は、14636歩で約8.7km歩いたことに・・・
志都美駅
曇り空で葛城山も二上山も見えない
JR山崎駅(受付・スタート)
この奥に妙喜庵がある
JR山崎駅前に有る妙喜庵(みょうきあん)
千利休作の日本最古の茶室 国宝「待庵」が有る事で知られる。
妙喜庵は京都府乙訓郡大山崎町にある仏教寺院。山号は豊興山。妙喜禅庵とも称する。
江戸時代一時地蔵寺の塔頭であったが、現在は臨済宗東福寺派に属する。室町時代の
明応年間(1492年 - 1501年)の開創。開山は東福寺開創聖一国師法嗣・春嶽士芳。
※「待庵(たいあん)」国宝。
日本最古の茶室建造物であると同時に、千利休作と信じうる唯一の現存茶室である。
大山崎町歴史博物館にレプリカ?が設けられており外廻りから見る事が出来る。
離宮八幡宮(りきゅうはちまんぐう)
離宮八幡宮は京都府乙訓郡大山崎町にある神社。旧社格は府社。石清水八幡宮の元社
にあたる神社として知られる。
貞観元年(859年)に清和天皇が、神託により国家安泰のため宇佐神宮から分霊し平安京
の守護神として奉安することとし、その時に九州に使わされた大安寺の僧行教が帰途山崎
の津(当時の淀川水運の拠点港)で神降山に霊光を見、その地より石清水の湧いたのを帰
京後に天皇に奏上したところ、国家鎮護のため清和天皇の勅命により「石清水八幡宮」が
建立された。その後、嵯峨天皇の離宮「河陽(かや)離宮」跡であったので社名を離宮八幡
宮とした。また、貞観年間に神官が神示を受けて「長木」(てこを応用した搾油器)を発明し
荏胡麻(えごま)油の製造が始まったことから、日本における製油発祥地とされる。その後
「大山崎油座」の制度で荏胡麻油の販売権を独占して、多くの兵火に焼かれながらも江戸
時代まで栄えた。
しかし、幕末「禁門の変」時に長州藩屯所が山崎にあったため、攻撃を受けて多くの商家と
ともに焼失。廃藩置県により社殿のすぐ西から大阪府に割譲し、さらに1871年(明治4年)
に境内北側を国策による鉄道事業にささげ、境内はさらに縮小した。
油祖像 河陽宮故址石碑&製油発祥地碑が有る
石清水八幡宮と銘が彫り込まれた灯籠
境内でガイドの説明を聞く
離宮八幡宮を出て関大明神社へ向う
関大明神社(せきだいみょうじんしゃ)
関大明神社は、大阪府三島郡島本町にある神社。関戸明神(せきどみょうじん)、関戸大明
神とも称される。祭神は、大己貴命(おおなむちのみこと)・天児屋根命(あめのこやねのみこ
と)、または大智明神(だいちみょうじん)。島本町から京都府乙訓郡大山崎町にかけての土
地は天王山と淀川(桂川)に挟まれ古くは山崎橋も存在したことなどから交通の要衝として関
所が設置されており、関大明神社の名前の由来となっている。また、この神社自身が関所
「山崎関」(山城の関)跡地であるといわれ、関所または後に設けられた「関戸院」(関戸の院
〈せきどのいん〉)の鎮守社であったともいわれる。
創建は不詳で、水無瀬の里に置かれていたが洪水によってこの地へ移されたとも、京都へ悪
霊の侵入を防ぐためこの地に道祖神が建立されたのが起源ともされる。また、伯耆国大山の
大智明神の神輿を収めたことにより始まるという伝承もある。この地は西国街道の宿場町で
山崎宿として知られ、周辺には古い建物が散見される。
また、傍らには「従是東山城國」との石碑も存在する。古くはこの関大明神社の前に流れる小
川が摂津国と山城国の境であったといわれており、現在でもこの川にほぼ沿った形で府境が
引かれている。
※全国でも珍しいJR山崎駅・・・ホームの途中に京都府と大阪府の府境界が有る
山崎宗鑑碑
JR山崎駅から天王山へ至る、踏み切りを渡りきると、ちょうど天王山登山口にこの霊泉連歌講
跡碑と山崎宗鑑句碑が立っています。
※山崎宗鑑
山崎宗鑑は、室町幕府9代将軍足利義尚に仕える武士でしたが、義尚の陣没(延徳元年、148
9年)後に出家して宗鑑と名乗り、この大山崎に隠棲しました。大山崎油神人の繁栄や、惣中や
待衆の支えによって連歌講の中心人物になり、宗鑑はこの付近にあったとされる冷(霊)泉庵で
連歌の会を開いたり、俳句の指導をしていたとされています。また書にも優れ 宗鑑流として多く
の人々に愛されました。晩年は『新撰犬筑波集』などを発表し、俳諧の創 始者として知られてい
ます。宗鑑の自宅は大阪と京都の境目の関大明神の向かいにあったとされ、その場所の旧家
森村家には「宗鑑井戸跡」「宗鑑旧居跡」が残されています。
宝積寺へ向かう急な坂道
宝積寺仁王門前
宝積寺(ほうしゃくじ)
通称・宝寺(たからでら)は、奈良時代の724年に聖武天皇の勅願を受けて行基が開創したと伝
えられる歴史と由緒のあるお寺で、大阪府との府境に程近い大山崎町にあります。そして、この
大山崎町という場所自体が歴史的にもそしてパワースポット的にも非常に重要な意味を担って
いるのです。
昔話の「一寸法師」に登場する「打出の小槌(うちでのこづち)」。振ると、大判小判や宝物がザク
ザクと現れるというあの「打出の小槌」のモデルになったとされるものが、この宝寺に実在してい
ます。一寸法師(実際は普通の身長の男性)がここ宝寺で修行し、お寺にあった「打出」と「小槌」
のご利益で鬼を退治したことからお姫様と結婚し出世がかなったという話が、寺伝として実際に
伝わっているのです。「打出の小槌」と一般に言われますが、実は「打出」と「小槌」は別々のもの
で、「打出」は実り(福)の種を蒔くために土にさして穴を開けるためのもの、「小槌」は実り(福)を
祈願して振るためのものというのが本来であり、今でもお寺には古より伝わる「打出」と「小槌」が
保存されています。この宝寺は聖武天皇の勅願で建てられたものですが、即位以前、夢の中に
現れた龍神から打出と小槌を授けられ、それに75日間祈ったところ無事天皇に即位することが
できたことから、この打出と小槌を奉納するためにお寺を建てることになったという話が言い伝え
られています。聖武天皇の即位と秀吉の出世に(もしかしたら一寸法師の出世にも)宝寺が少な
からず関わっていたというのは興味深い話であり、金運のみならず、出世運にも多大なご利益が
あるという噂もうなずけます。
豊臣秀吉 一夜の塔
寺宝を多く有しており、建造物では桃山時代に秀吉が一夜で建てたと伝えられている「一夜の塔」
と呼ばれる三重搭が重要文化財に、本堂及び山門は京都府の登録文化財に指定されています。
宝積寺・閻魔堂・本堂拝観・豊臣秀吉 一夜の塔
美術工芸品では本堂内安置の十一面観音菩薩立像、仁王門の金剛力士像及び収蔵庫に安置
される閻魔王像と眷族像が重要文化財に指定されている。其の中でも特に日本一の閻魔王像と
眷属像は見る者を圧倒する迫力があり必見です。本堂左横にある小槌宮には大黒天が祀られ、
聖武天皇が夢で竜神から授けられたという打出と小槌で、参詣者に福徳を授けています。その
ため宝寺という別名もあり、歴史上しばしば登場するお寺で大黒天宝寺として商売繁盛のお寺と
知られています。一寸法師の説話も宝積寺から生まれたのです。
また、本堂の脇には秀吉が腰掛けて天下統一について考えたと伝えられる出世石があります。
この出世石に腰掛けると出世するというお話もあります。許可をいただければ実際に腰掛けるこ
ともできます。
竹の小路を山崎聖天へ向かう
大山崎山荘庭園で最初に建てられた建物の搭
大山崎山荘
※大山崎山荘庭園
宝寺に隣接する広大な敷地には、ニッカウヰスキーの創業に参画した実業家、加賀正太郎氏
が建てた「大山崎山荘」があり、現在ではアサヒビールが管理する美術館として、内部の貴重な
調度品や庭園なども一般に公開されています。近くには、サントリーの山崎蒸留所があったり、
邸宅が見受けられたりと、自然に恵まれた環境であると共に豊かな空気に包まれた一帯という
印象を受けます。宝寺のある地区が「銭原」というお金にまつわる縁起の良さを感じられる名前
であることもそうですが、重要な歴史の舞台になり、また歴史を形づくってきた人々と縁の深い
場所ならではの特別なパワーがこの一帯に満ちているのでは?などと思えて来てしまいます。
※加賀正太郎(かが しょうたろう)
加賀 正太郎(1888年1月17日 - 1954年8月8日)は、大正時代から昭和時代にかけて活躍した
日本の実業家。1888年、大阪市東区今橋生まれ。12歳の時に父親が亡くなり、船場にあった
江戸時代から続く実家の繊維業・米穀仲買業・両替商「富商加賀商店」を継ぐ。東京高等商業学
校(現・一橋大学)卒業後、加賀證券(のちに菱光証券に商号変更し三菱UFJ証券に合併)を設
立して社長を務めるなど多くの会社経営を行い、証券業、林業、不動産業、ゴルフ場経営、洋蘭
業などで成功した。1934年の大日本果汁(現・ニッカウヰスキー)創業にも参画。出資の70%を
構成して同社の筆頭株主だった。1954年死期を悟り、株式の散逸を防ぐためアサヒビールの山
本為三郎にニッカウヰスキー株を売却。
竹林のこみち
アサヒビール大山崎山荘美術館と観音寺(山崎聖天)を結ぶこみちです。春には対岸の
背割り堤の桜並木を眺望できます。
此の続きは、
9月18日の大山崎町の歴史探訪&サントリービール工場-2 として
下記のメインブログへ詳細を投稿します。
https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、山崎聖天~
山崎聖天
天王山麓に位置し、「山崎の聖天さん」として京阪神の人々から厚い信仰を受けて いるお寺で
す。平安時代に宇多天皇(寛平法皇)の勅願で開山されました。その後江戸時代に木食以空が
中興開山し堂塔を整えました。本堂横に聖天堂があり江戸時代には現世利益を求めた大阪の
商人の厚い信仰を受け大いに隆盛しました。豪商住友家も帰依し立派な青銅製の灯篭を寄進
しています。幕末、元治元(1864)年に起こった禁門の変の余波で全焼し、明治時代になって伽
藍が復興しました。
桂昌院寄進の釣鐘
境内の梵鐘は五代将軍綱吉の生母桂昌院から、また銅製の大灯籠は江戸時代中頃に住友家
から寄進されました。このような有力な信者を持った観音寺は富裕町人にも人気があり山崎の
聖天さんとして、近隣はもとより大阪一帯からも親しまれてきました。
山崎聖天を後に桜の広場へ向かう
桜の広場(昼食休憩)後大山崎瓦窯跡へ向かう
※大山崎瓦窯跡
平成16年(2004)12月の調査の結果で平安宮の所用瓦を焼成した平安時代前期の瓦窯が6基、
まとまって発掘されました。当時、平安京周辺各地の多数の瓦窯で大量の瓦を生産し、平安宮・
京の造営を支えたものと考えられ、大山崎瓦窯もその一つとされます。
ここで製作された瓦は平安宮朝堂院をはじめ、嵯峨院、河陽離宮に供給されました。2006年
(平成18年)には、重要性が考慮され国の史跡に指定されています。2008年には、7番目の窯が
発見され、2009年には、更に8番目の窯が北約6mの崖で瓦窯の燃焼室の焚口が見つかってい
ます。大山崎瓦窯跡の石碑が立っている真向かいに、天王山登山口と観音寺へ続く道がある。
大山崎町歴史資料館へ向かう
大山崎町歴史資料館(解散)
大山崎。それは天王山が淀川へ最もせり出した場所を意味します。その自然の関門ともいうべき
地形から、日本の東と西を結ぶ交通の要衝として古代以来発展してきま した。当歴史資料館の
常設展では、これまで歩んできた歴史的特色を踏まえ、7つのコーナーを設けて町の歩みを紹介
しています。まず、エントランスルームでは、年表、文化財地図パネル等で町の歴史概観ができま
す。そして竹林のプロムナードをぬけると、そこには大山崎の名水にちなむ井戸ビジョンがあり、映
像で各時代の特色ある文化・歴史を紹介し、次のコーナーへの興味を高めます。展示室は5つの
コーナーに分れ、古代コーナー、中世コーナー、山崎合戦と待庵・利休のコーナー、近世コーナー
という構成になっています。各コーナーとも実物展示のほか、解説ビデオやイラスト、模型や複製
などを用いて、楽しみながら歴史学習ができるように心がけた展示となっています。
サントリービール京都工場見学&試飲へ向かう
阪急大山崎駅⇒西山天王山駅から歩いてサントリービール京都工場へ
サントリービール京都工場見学・試飲
1970年大阪万博のサントリー館の展示ホールのモニュメントを移設・・・
※サントリー館の吹き抜け展示ホールには、高さ 12mのステンレス製の巨大な モニュメント
「御酒口(みきぐち)」が展示された。「御酒口」は昔、祝い事の際、神酒の飾りとして使用され
た竹製の装飾品で、そのシンプルな造形美をヒントにして制作されたもの。モニュメントは数
種の照明に照らされ、静かな音楽が流れる中で、幻想的な雰囲気を醸し出していた。
試飲 三種類のビールがf試飲出来る様になっていた。
下戸の私は、二種類で満足、三種類目は飲めずにリンゴジュースで締めた・・・
帰りは
ほろ酔い気分で工場からのバスで駅へ送られ、梅田経由で帰りました。
自宅へ帰り着いたのは午後6時を過ぎていた
2019-09-23 13:45
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