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10月26日の坂本龍馬ゆかりの地!伏見エリア散策-1

10月27日       10月26日の坂本龍馬ゆかりの地!伏見エリア散策-1
                  近鉄駅フリーハイキング  歩程約9㎞
此の日は、知人のK場さん・Y田さん・I 田さんと4名で近鉄ハイキングに参加した。
コースは   近鉄桃山御陵駅前に10時集合・スタート  まだまだ暑い一日だった。
近鉄桃山御陵前駅(10時集合)~アーケード商店街~龍馬通り~寺田屋~長建寺~弁天
橋(十石舟・船着場)~月桂冠大倉記念館~鳥せい本店~御香宮神社~向島駅(ゴール)
実際に歩いたコースは
近鉄桃山御陵前駅(10時集合)~アーケード商店街~龍馬通り~寺田屋~長建寺~弁天
橋(十石舟・船着場)~月桂冠大倉記念館~鳥せい本店~御香宮神社~桃山御陵入口~
乃木神社~光明天皇陵~東奉行児童公園(ベンチで昼食)~伏見公園(トイレ)~宇治川
沿いを観月橋(元のコース)へ~向島駅(ゴール)・・・・大和郡山 薬園八幡神社~王
寺駅へ 此の日の私の万歩計は、21029歩で約12.6km歩いたことに・・・
志都美駅
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近鉄桃山御陵前駅(10時集合)
1928年(昭和3年) 11月3日:奈良電気鉄道当駅 - 西大寺(現・大和西大寺)間開通時
に開業。11月15日:奈良電気鉄道京都 - 当駅間延伸。
1945年(昭和20年)12月21日:当駅と京阪本線丹波橋駅とを結ぶ線路を新設し、全列
車が京阪丹波橋駅へ乗り入れる。堀内駅(現在の近鉄丹波橋駅の前身)経由の線路は営
業を停止、引上線となる。1963年(昭和38年)10月1日:会社合併により近畿日本鉄道
の駅となる。相対式2面2線のホームを持つ高架駅。ホーム有効長は6両。改札・コンコ
ースは1階、ホームは2階にある。改札口は1ヶ所のみで、大手筋に面している。開業時
から高架駅であった。
桃山御陵参道との平面交差を京都府から変更を求められたため、当初は地下線とする
予定であった。地下水脈を断つとして伏見酒造組合が反対を示し、伏見町長名での同
内容の陳情書も出された。それを重く見た府から対策を求められた結果、奈良電側が
折れ、町内は高架となった。

※大阪環状線 桃谷駅・・・桃山駅~桃谷駅へ改称
1895年(明治28年)5月28日 - 大阪鉄道 (初代) 天王寺駅 - 玉造駅間延伸により、桃山
駅として開業。1900年(明治33年)6月6日 - 会社合併により関西鉄道の駅となる。
1905年(明治38年)3月1日 - 桃谷駅に改称。この年2月8日に奈良鉄道が関西鉄道に
事業を譲渡して奈良線の桃山駅が加わったため、21日間は同じ会社に2つの「桃山
駅」が併存していた。
※奈良鉄道 桃山駅  
1895年(明治28年)11月3日 - 奈良鉄道の伏見駅 - 当駅間延伸に伴い、その終着駅と
して開業。・・・大阪環状線の桃山駅命名が約6ケ月早いのになぜ?桃山御陵のせい
でも無い?
※1912年(明治45年)7月30日に明治天皇が崩御。伏見桃山が陵墓地に選定され、桃
山駅は国鉄奈良線のなかの一駅ではなくなり、大葬列車を迎えるため、急いで拡張と
整備の工事がなされた。現在、踏切を挟んだ駅の北側のマンション群は、柩が下車し
た仮停車場と駅前広場の跡地である。

伏見区大手筋商店街
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大光寺
京都、伏見区大手筋商店街に面する大光寺の公式サイトより
山城国伏見は、歴史上重要な地でした。鎌倉時代より、現在の天皇家に繋がる宮家ゆ
かりの地であり、桃山時代には、秀吉・家康という天下人が住み、名実共に日本の
中心でした。秀吉はこの地で亡くなり、のちに明治天皇もこの地に祀られています。
いにしえの人々がこよなく愛した、伏見の指月の丘からの眺めは、さぞかし美しか
った・・・
そんな伏見の歴史に深く関わってきたお寺です。大光寺は、戦禍に被災することなく、
800年という長い間、数奇な運命辿りながら、現在は宗祖法然上人の御教え、その法
を受け継ぐ浄土宗の一寺院です。
歴史・・・抜粋
大光寺は、鎌倉時代の文応元年(1260)に、浄土宗の開祖法然上人より六代孫弟子の
空蔵房寛海上人により開基されました。当初の寺名は「大光明寺」で、即成院村の地
(現在の伏見桃山町松平武蔵)にありました。
大光明寺は指月伏見城築城に伴い移転、「大光明院」に
応仁の乱では、大光明寺も荒廃の時期がありましたが、文禄の頃、豊臣秀吉により同
地に指月伏見城が築城され、大光明寺は秀吉や家康ほか諸大名の勧進により、相国寺
山内に移されて、「大光明院」と改名し再建されました。この時宝厳院はそのまま残
されています。 中興上人により、「宝厳院」が『大光寺に
文禄元年(1592)大光明寺の相国寺移転に際して、宝厳院に中興荘蓮社厳譽上人が入
寺。本山を浄土宗黒谷金戒光明寺に定め、嘗ての寛海上人の浄土系大光明寺の法統を
引き継ぎ、寺名は「大光明寺」から「明」の一字を削って、新たに『大光寺』と改名。
山号を『藤澤山』としています。
慶長・元和年中には、大光寺の末寺も増え中本山格となり、徳川家光の伏見城での将軍
宣下とその後の伏見城廃城を機に、寛永元年(1624)伏見奉行小堀政一(遠州)により、
現在の地の伯耆町(青山伯耆守屋敷跡)を替地として拝領します。翌年(1625)円蓮社
頓譽上人代に、旧来の地に塔頭一寺を残し、精舎を現在の地に移転しています。残った
松平武蔵にある塔頭はしばらくは『大光寺』のままでしたが、後に宝厳院にちなんで
「宝円寺」と改名し、『大光寺』の末寺となっています。
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まだまだ続く
伏見区大手筋商店街を出て左折
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龍馬通り
京都伏見区の龍馬通り商店街
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寺田屋・・・ 幕末を代表する史跡のひとつです。
寺田屋は、江戸時代から続く旅館です。鳥羽・伏見の戦いで焼けたあと、隣接する場所に当
時のようすを再現して再建され、現在でも旅館として営業しています。
京都の伝統的な町家づくり。建物の中へ上がると、坂本龍馬や維新の志士に関係する史料
類がいっぱい飾られているそです。
寺田屋では2つの大きな事件が起きています。
ひとつは1862(文久2)年に起きた、薩摩藩士による同士討ちです。
江戸時代末期、薩摩藩では脱藩して志士として活動する若者が多く、そのことを快く思っ
ていなかった薩摩藩主島津久光は、自藩の尊王攘夷派が京都の寺田屋に集結したことを聞
いて刺客を送り、 何人かを殺し、何人かを送還しました。送還された若者の中には、のち
の西郷従道や大山巌もいました。
もうひとつは1866(慶応2)年に起きた、伏見奉行による坂本龍馬暗殺未遂事件です。
薩長連合を成し遂げた坂本龍馬は、行動を共にしていた長州藩士、三吉慎蔵とのちに妻
となるおりょうを待たせている伏見の寺田屋へ向かいました。
真夜中に到着し、龍馬と三吉慎蔵が飲み始めたところ、伏見奉行所の捕吏たちに取り囲ま
れてしまいました。龍馬と三吉慎蔵のために布団を敷いてから風呂に入ったおりょうは、
窓から外を見てびっくり。裸のまま階段を駆け上がって、捕吏たちに囲まれたことを報せ
ました。乱闘とはなったものの、おりょうの裸の報せのおかげもあって、龍馬と三吉慎蔵
は窮地を脱しています。
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弁天橋へ向かう
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長建寺(ちょうけんじ)
長建寺は、江戸時代の中書島繁栄をもたらした伏見奉行、建部内匠頭政宇(たてべたく
みのかみまさいえ)の長寿を願って建てられたお寺です。京都で唯一ご本尊が辨戝天と
いうめずらしいお寺で、「中書島の弁天さん」として親しまれています。

独特の形をした赤い竜宮門が印象的なお寺です。
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ジュディオングさんの言葉?
山門迎福(サンモンゲイフク)
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境内の
ツワブキも綺麗
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灯籠の最下部にマリア像が・・・
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川沿いのキバナコスモス
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弁天橋(十石舟・船着場)
伏見十石舟(ふしみじっこくぶね)は、特定非営利活動法人(NPO法人)の伏見観光協
会が運航する遊覧船である。 京都市伏見区の濠川(宇治川派流)に架かる弁天橋(月桂
冠大倉記念館裏)のたもとから発着する。「十石舟」のほか、比較的船体が大きい「三
十石船」も随時運航されている
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※「十石舟」「三十石船」は、江戸時代に伏見からの酒や米などの搬出および旅客を大
坂と行き来させるため、宇治川派流と宇治川・淀川の間を航行する輸送船としてはじま
り、明治時代末期まで存続した。

月桂冠大倉記念館~鳥せい本店
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此の続きは、
10月26日の坂本龍馬ゆかりの地!伏見エリア散策-2 として
           下記のメインブログへ詳細を投稿します。
          https://taharas-amami-nara.blog.ss-blog.jp/
続きは、御香宮神社へ向う~
御香宮神社へ向う
道路をまたぐ大鳥居が見えて来た
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御香宮神社
日本第一安産守護之大神として広く崇められている神功皇后を主祭神として、仲哀天
皇、応神天皇他六柱の神をまつる。 初めは「御諸神社」と称したが、平安時代貞観四年
(862)九月九日に、この境内から「香」の良い水が湧き出たので、清和天皇よりそ
の奇瑞によって「御香宮」の名を賜った。 豊臣秀吉は天正一八年(1590)願文と太
刀(重要文化財)を献じてその成功を祈り、やがて伏見築城に際して、城中に鬼門除け
の神として勧請し、社領三百石を献じた。 その後、徳川家康は慶長十年(1605)
に、元の地に本殿を造営し社領三百石を献じた。 慶応四年(1868)正月、伏見鳥
羽の戦いには、伏見奉行所に幕軍が據り、当社は官軍(薩摩藩)の屯所となったが、幸
にして戦火は免れた。

千姫は秀頼に嫁ぐ際、江戸からここ伏見に立ち寄り、大坂へと向かったそうです。
千姫ゆかりのとして紹介された御香宮神社ですが、珍しいことに境内には家康を
まつる「東照宮」と、秀吉をまつる「豊国社」あるとのこと。
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少しコースを変えて桃山御陵入口~「乃木神社」へ周って・・・・
桃山御陵入口
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乃木神社
祭神は、陸軍軍人・乃木希典(のぎ まれすけ)である乃木希典大人之命乃(のぎまれすけ
うしのみこと)、希典の妻・ 静子である乃木静子刀自之命(のぎしずことじのみこと)を
祀る。旧府社。戦前までは武神として崇敬された。文才に優れた乃木にあやかり学問、
受験合格の篤い信仰がある。御朱印が授けられる。
1912年、明治天皇が亡くなり、乃木希典夫妻は、葬儀参列後、自宅で自決した。
1916年、実業家・村野山人が私財を投じ、4年の歳月をかけて創建した。桃山御陵の
守護、英霊の慰謝のために祀られた。
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旧海軍将兵慰霊碑「蒼海に眠る若人の碑」と「吾妻」の主錨、「吾妻」は装甲巡洋艦、
9300t、主錨は3.8t。フランスで起工された。連合艦隊に編入され日本海戦に参戦、
昭和初期に舞鶴湾に係留され、海軍兵の練習艦となる。1944年に解体された。
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宝物館&記念館
宝物館
神社創建と同時に乃木将軍の遺品を保存公開する施設として建てられた。宝物館は、
なまこ壁の土蔵様式の建物であり、耐火を意識した造りとなっている。
記念館
乃木将軍が日露戦争時の約1年の間203高地攻略の指揮を取り起居した第3軍司令部の
建物を神社建立の際に買い受け、移築復元したものである。建物は、もと南満州にあ
った横長の母屋であり、その腰石には5億年以上前に形成された正桂岩を使い、「漣
痕」模様の化石がみられる学術的にも珍しいものである。野外には人物模型を用いて、
長府の旧邸の中で乃木将軍が少年時代に父親から毎朝訓示を受けている若き将軍の暮
らしぶりの様子を復元展示している。

※乃木希典 江戸時代末-近代の軍人・乃木希典(のぎ まれすけ、1849-1912)。江戸
の長府藩藩士・乃木十郎希次の家に生まれた。吉田松陰の叔父・玉木文之進の塾に入
門、長州藩・学問所の明倫館文学寮でも学んだ。1865年、長府藩報国隊、奇兵隊に合
流し幕軍と戦う。1871年、陸軍少佐となる。1877年、西南戦争で、歩兵第14連隊長
心得として、田原坂(熊本)で西郷軍に天皇の分身とされた連隊旗を奪われた。失態に
対して死を願い出たが、明治天皇に慰留される。1886年、ドイツ留学。1894年、日
清戦争(1894-1895)では、第1旅団長(少尉)として旅順を陥落させた。1895年、第2師
団長(中将)として台湾征討、1896-1898年、台湾総督に就任した。1899年、第11師団
の初代師団長(中将)となる。1904年、日露戦争(1904-1905)で、第3軍司令官(大将)と
して旅順要塞攻略、203高地を占領した。なお、二子はこの時戦死し、私信に「愚父
ノ面目ヲ添ヘタル」と記した。
明治天皇の要請により、1907年、学習院院長に就任する。1912年、9月13日、明治天
皇大葬の日、葬儀参列後、自宅で割腹殉死した。西南の役の責、旅順攻略で多くの犠
牲を出した責任を取った。漢詩、和歌も250篇以上残している。
 辞世「うつし世を 神去りましし大君の みあとしたひて 我はゆくなり」。
※乃木静子 江戸時代末-近代の女性・静子(1859-1912)。薩摩藩医・湯地定之の4女。
1878年、乃木希典と結婚。2子はいずれも戦死している。明治天皇大葬の日、夫の後
を追い自害した。
辞世「出てまして かへります 日のなしきとく けふの御幸に逢ふぞ かなしき」。
※村野山人 近代の実業家・村野山人(むらの さんじん、1848-1921)。薩摩藩士の家
に生まれた。兵庫県警部、神戸区長、山陽鉄道、豊州鉄道、神戸電気鉄道などを経営
し、神戸商法会議所会頭、衆議院議員(当選2回)となる。1912年、明治天皇の大葬に参
列し、乃木夫妻の殉死を知る。乃木希典の1周忌に京阪電鉄取締役職を辞し、全私財
を投じて乃木神社を創建した。
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此処も今日のコース外だが・・・
光明天皇陵
陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市伏見区桃山町秦長老にある大光明寺陵
(だいこうみょうじのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇
の霊が祀られている。
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※光明天皇(こうみょうてんのう)・・明治天皇の父親は孝明天皇(こうめいてんのう)
光明天皇(1322年1月11日〈元亨元年12月23日〉- 1380年7月26日〈康暦2年/天授6年
6月24日〉)は、日本の北朝第2代天皇(在位:1336年9月20日〈建武3年/延元元年8月1
5日〉- 1348年11月18日〈貞和4年/正平3年10月27日〉)。諱は豊仁(ゆたひと)。
その即位によって北朝が成立したので北朝最初の天皇ということになるが、鎌倉時代末
期に在位した兄の光厳天皇が後醍醐天皇によって即位を否定され、歴代天皇126代に
含まれない北朝初代天皇として扱われているため、光明は北朝第2代とされている。

※南北朝時代
後醍醐天皇の建武の新政から離反した足利尊氏が湊川の戦いで宮方に勝利し、建武3
年(1336年)に京都に入ると後醍醐天皇は比叡山延暦寺に逃走する。後醍醐天皇の代
わりに8月15日に豊仁が三種の神器の無い状況で光厳上皇の院宣により即位して光明
天皇となり、北朝が成立する。三種の神器がない状況での即位は後鳥羽天皇が後白河
法皇の院宣により即位した先例に従ったものであり、この時代は三種の神器が皇位継
承の絶対条件ではなかったのである。兄の光厳上皇による院政が行われた。

東奉行児童公園(ベンチで昼食)~伏見公園(トイレ)~宇治川~観月橋
観月橋(宇治川)を渡る
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向島駅(ゴール)~帰途へ
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近鉄郡山駅~JR郡山駅へ向かう
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薬園八幡神社
祭神:誉田別命、息長足媛命
天平勝宝2年(750)に創祀された。
当社はもともと薬園村の鎮守として創建されたもので、郡山築城に当たって現在の塩
町付近にあったものを当地に遷座したといわれている。 地元では「やこうさん」と呼
ばれ親しまれている。境内には薬草園がある。
続日本記に詳述されているとおり、奈良時代天平勝宝2年(749年)平城宮の南。梨原の
薬園新宮内に設けた神殿に迎え祀られる。
梨原の地はもと薬園のあったところで新宮の名もこれに因む。所々に極彩色の残った
本殿や見事な釣り灯籠が並ぶ社殿は桃山〜江戸初期の再建とされる。
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郡山城
外堀公園
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JR郡山駅
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