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11月16日の世界遺産・ここが凄い“古市古墳群”巡り-1

11月18日      11月16日の世界遺産・ここが凄い“古市古墳群”巡り-1
              藤井寺市観光協会主催 参加費@200円
此の日は、知人の・K場さん・O村さんと3名で藤井寺市観光協会主催のハイキングに
参加、ボランティアガイドノ先導世界遺産~古市古墳群巡り~をして来ました。
コースは 道明寺天満宮受付9:00~9:40  藤井寺市観光協会主催 参加費@200円 
道明寺駅~道明寺天満宮(受付・スタート)~道明寺前~仲姫命陵古墳~小室山古墳~
大鳥塚古墳~応神天皇陵古墳~番所山古墳~シュラホール・ビューポイント~ 仲哀天
皇陵古墳~アイセル・シュラホール(復元・藤の森古墳石室)・抽選会・記念スタンプ
・シュラホール見学~ボランティアガイド先導で希望者は藤本酒蔵(試飲・買い物)
解散~葛井寺~商店街で昼食休憩~藤井寺駅  天気に恵まれたハイキングでした。
此の日の私の万歩計は、17004歩で約10.2㎞歩いたことに・・・ 
志都美駅~柏原駅乗換~道明寺駅
柏原駅で乗換
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道明寺駅・・・道明寺駅の歴史(近鉄電車発祥の駅として知られる)
近畿日本鉄道(近鉄)の駅。駅番号は南大阪線がF15、道明寺線がN15。
柏原駅や古市駅と並び、現在の近鉄に属する駅の中では最古の歴史を有する。
898年(明治31年)3月24日 - 河陽鉄道として柏原 - 当駅 - 古市間が開業に設置。
1899年(明治32年)5月11日 - 河陽鉄道の路線を河南鉄道が承継。同社の駅に。
1919年(大正8年)3月8日 - 社名変更により大阪鉄道の駅となる。
1922年(大正11年)4月18日 - 当駅から布忍駅までが開通。分岐駅となる。
1943年(昭和18年)2月1日 - 関西急行鉄道が大阪鉄道を合併、関西急行鉄道駅。
1944年(昭和19年)6月1日 - 戦時統合により関西急行鉄道が南海鉄道(現在の
南海電気鉄道の前身。後に再独立)と合併、近畿日本鉄道の駅となる。
※駅周辺のシンボルでもあったサントリー道明寺工場は2004年10月末で操業を
停止し、解体された。
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道明寺天満宮へ向かう
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道明寺天満宮斜面の復元登り窯
道明寺天満宮から三ツ塚古墳(八島塚古墳・中山塚古墳・助太刀山古墳)にかけて
の斜面には埴輪をを焼いた登り窯が有った。
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道明寺駅~道明寺天満宮(受付・スタート)
道明寺天満宮(受付・スタート)
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道明寺天満宮
祭神は菅原道真公、天穂日命と、菅原道真公のおばに当たる覚寿尼公である。
隣接して道明寺という真言宗の尼寺がある。この地は、菅原氏・土師氏の祖先に当た
る野見宿禰の所領地と伝え、野見宿禰の遠祖である天穂日命を祀る土師神社があった。
仏教伝来後、土師氏の氏寺である土師寺が建立された。伝承では聖徳太子の発願によ
り土師八島がその邸を寄進して寺としたという。平安時代、土師寺には菅原道真公のお
ばに当たる覚寿尼公が住んでおり、道真公も時々この寺を訪れ、この寺の事を「故郷」
と詠んだ詩もある。延喜元年(901年)、大宰府に左遷される途中にも立ち寄って、覚寿
尼公との別れを惜しんだ。道真公遺愛の品と伝える硯、鏡等が神宝として伝わり、6点
が国宝の指定を受けている。
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道明寺前
※道明寺(どうみょうじ)・・・ 道明寺は、真言宗御室派の尼寺。山号は蓮土山。
道明寺周辺は、菅原道真の祖先にあたる豪族、土師(はじ)氏の根拠地であった。道明寺
は土師氏の氏寺土師寺として建立され、今の道明寺天満宮の前にあった。当時は七堂
伽藍や五重塔のある大規模なものであった。901年(延喜元年)、大宰府に左遷される道
真がこの寺にいた叔母の覚寿尼を訪ね「鳴けばこそ別れも憂けれ鶏の音のなからん里
の暁もかな」と詠み、別れを惜しんだと伝えられる。この故事は、後に人形浄瑠璃・
歌舞伎の『菅原伝授手習鑑』「道明寺」の場にも描かれている。道真の死後、寺名は
道明寺と改められるが、これは道真の号である「道明」に由来する。
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※澤田八幡神社・・・境内に電車が通っている全国的にも数少ない珍しい神社です。
祭  神:仲津媛皇后 応神天皇
国府八幡神社の由緒書きに、藤井寺市内には、江戸時代初期の頃に誕生した八幡神社
が五社ありますが、国府八幡神社以外の八幡神社は、誉田八幡宮(羽曳野市)の分霊を
勧請したものとされています。沢田八幡神社、古室八幡神社、土師里八幡神社、津堂
八幡神社の四社です。とある・・・・

仲姫命陵古墳
5世紀前半に築造された大型前方後円墳です。墳丘長は290mで古市古墳群では応神
天皇陵古墳(羽曳野市)に次ぐ大きさを誇ります。後円部側には陪塚と考られる鍋
塚古墳があります。
仲姫命(なかつひめのみこと、生没年不詳)は、応神天皇の皇后。『古事記』は中日売
命に作る。品陀真若王(五百城入彦皇子の王子、景行天皇の孫王)の王女で、母は金田
屋野姫命(建稲種命の女)。応神天皇との間に仁徳天皇を儲ける。仲津姫命とも。
ちなみに同母姉の高城入姫命や同母妹の弟姫命も応神天皇の妃となっている。
応神天皇2年2月3日(271年3月1日)、応神天皇の皇后に立后された。仁徳天皇元年
1月3日(313年2月14日)、仁徳天皇の即位と同日に皇太后となった。
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小室山八幡神社
祭  神:仲津媛皇后 応神天皇
国府八幡神社の由緒書きに、藤井寺市内には、江戸時代初期の頃に誕生した八幡神社
が五社ありますが、国府八幡神社以外の八幡神社は、誉田八幡宮(羽曳野市)の分霊を
勧請したものとされています。沢田八幡神社、古室八幡神社、土師里八幡神社、津堂
八幡神社の四社です。とあると言う・・・
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仲姫命陵古墳拝所
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小室山古墳
古室山古墳は、後円部頂上の標高が約39mを測り、国府台地でも高所に位置していま
す。そして視界をさえぎる巨木が少ないため、頂上からの眺望はすばらしいものがあり
ます。また、梅や桜の木が植えられており、季節になると美しい花を咲かせます。これ
らはいずれも訪れる人々を楽しませています。古墳の墳丘の長さは150mで、古市古墳
群の中では中形の前方後円墳に属します。古室山古墳が造られたのは4世紀末から5世
紀初頭のことです。これは、古市古墳群の形成が開始された時期にあたり、同古墳群
中で最も早く造られた古墳の一つに数えられます。
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西名阪自動車道の下に有る赤面山古墳の横を通り
※赤面山古墳
西名阪自動車道の高架下に赤面山古墳がある。大鳥塚古墳の後円部に接するように
位置するこの高まりが赤面山古墳です。現状からすると、墳丘の一辺が15mの方墳
と考えられます。人を葬った施設などは分かっていません。赤面山古墳が造られ
たのは、従来の身分秩序が変化しつつある時期でした。そして、赤面山古墳の被葬
者は、生前、大鳥塚古墳の被葬者に仕えていた人物で、死後もなお、その力関係は、
葬られた古墳の墳丘の形と立地関係により、目に見える形で現わされたのです。

大鳥塚古墳
大鳥塚古墳は、墳丘の長さが110mの前方後円墳です。古市古墳群の中では中形で、
前方部は南を向いています。墳丘はほぼ全域がクヌギの林になっていて、足を踏み
入れると夏でもひんやりとした感じを受けます。造られた当時、墳丘の斜面には
石が葺かれ、平坦面には円筒埴輪が並んでいました。人を葬った施設の構造は分
かっていません。
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此の続きは、
11月16日の世界遺産・ここが凄い“古市古墳群”巡り-2 として
         下記のメインブログへ詳細を投稿します。
         https://taharas-amami-nara.blog.ss-blog.jp/
続きは、応神天皇陵古墳~ 
応神天皇陵古墳
誉田御廟山古墳(伝応神天皇陵)で墳丘長さ425m、濠を含めた全長650mで百舌
鳥古墳群の仁徳天皇陵の墳丘長486m、全長840m次ぐ。体積は、143万立法
mで仁徳天皇陵の140万立法mを抜き日本最大と言われる。 
応神天皇(おうじんてんのう、仲哀天皇9年12月14日 - 応神天皇41年2月15日)は、第
15代天皇(在位:応神天皇元年1月1日 - 同41年2月15日)。諱は誉田別尊(ほむたわ
けのみこと)、誉田別命(ほんだわけのみこと)、大鞆和気命(おおともわけのみこと)。
誉田天皇(ほむたのすめらみこと/ほんだのすめらみこと)、胎中天皇(はらのうちにま
しますすめらみこと)とも称される。
学術的に確定しているわけではないが、4世紀末から5世紀初頭に実在した可能性の
高い天皇と見られている。宮内庁によれば、在位270-310年とされている。御名に装
飾性がなく『記紀』に記された事跡が具体的でなおかつ朝鮮の史書の記述に符合す
る部分も窺えることから、「確実に実在をたしかめられる最初の天皇」としている。
また中国の史書との相対比較から、『宋書』や『梁書』に見える倭の五王の「讃」
に比定する説もある。
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横へ廻って
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番所山古墳
藤井寺市の南部、藤ケ丘2丁目の住宅街の中に、まわりを道路で円形に囲まれ
た小さな山があります。これが蕃所山古墳で、モッコ塚とも呼ばれています。
この古墳は、周辺の住宅街ができるときに現在のような形で墳丘が保存されま
した。直径22m、高さ3mの円墳ですが、本来はもう少し大きかったと思われ
ます。墳丘のまわりに濠があったかどうかは分かりません。隣接する道路の一
部に深い掘り込みがあったことが立会調査で確認されています。あるいはこの
掘り込みが濠の一部である可能性も考えられますが、断言はできません。埴輪
や葺石は確認されていません。
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アイセル・シュラホール・ビューポイント
アイセル・シュラホール
大阪府藤井寺市にある考古学・歴史系博物館施設をメインと する生涯学習セン ター
の名称。正式名称は藤井寺市立生涯学習センター。1994年に 開館した。
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お世話になっています。
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仲哀天皇陵古墳(岡ミサンザイ古墳)・・・藤井寺市観光協会HPより
岡ミサンザイ”と呼ばれる墳丘長242mの大型前方後円墳で、幅の広い濠と幅の狭
い堤をもつ古市古墳群で3番目に大きい古墳です。5世紀末~6世紀初頭の築造と
考えられています。墳丘からは城の跡も見つかっています。周濠は水を貯え、冬に
はマガモが飛来し、市民の憩いの場として親しまれています。
※仲哀天皇(ちゅうあいてんのう、成務天皇18年? - 仲哀天皇9年2月6日)は、
『古事記』『日本書紀』に記される第14代天皇(在位:仲哀天皇元年1月11日
- 同9年2月6日)。足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)、帯中日子
天皇(古事記)。「タラシヒコ」という称号は12代景行、13代成務、14代仲哀
の3天皇が持ち、ずっと下がって7世紀前半に在位したことの確実な34代舒明、
35代皇極の両天皇も同じ称号を持つことから、タラシヒコの称号は7世紀前半
のものであり、12、13、14代の称号は後世の造作ということになり、仲哀天皇
の実在性には疑問が出されている(仲哀天皇架空説)。 容姿端正、身長一丈。
神功皇后の夫で、応神天皇の父とされるが、実在性を含めて諸事績の史実性
には疑いが持たれる。   (身長一丈=約3m)
日本武尊の第2子、母は垂仁天皇の皇女・両道入姫命(ふたじいりひめのみこと)。
皇后:気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと、神功皇后。息長宿禰王の女)
誉田別命(ほむたわけのみこと、応神天皇)
妃:大中姫命(おおなかつひめのみこと。彦人大兄の女) 麛坂皇子(かごさかの
みこ、香坂王)忍熊皇子(おしくまのみこ)
妃:弟媛(おとひめ。来熊田造の祖・大酒主の女) 誉屋別皇子(ほむやわけのみこ、
古事記では神功皇后所生)
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アイセル・シュラホール(復元・藤の森古墳石室)・抽選会・スタンプ
(復元・藤の森古墳石室)
藤の森古墳(ふじのもりこふん)は、大阪府藤井寺市野中にあった古墳。形状は
円墳。古市古墳群を構成した古墳の1つ。
畿内の横穴式石室としては最古級の例として知られるが、現在では墳丘は失われ
ている。
藤の森古墳は、古墳時代中期の5世紀後半(または5世紀中葉[2])頃の築造と推定
される。古墳自体は小規模であるが、石室の様相としては横穴式石室の初現期を
示し、畿内では最古級の横穴式石室である点で重要視される古墳である。
石室は、現在、アイセル・シュラホールの敷地に移転・復元されている。
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シュラホール見学~ボランティアガイド先導で藤本酒蔵(試飲・買い物)
藤本酒造醸・・・HPより
現在の藤本雅一酒造醸は、大正2年(1913年)3代当主重治郎が創業しました。
当時、藤井寺のあたりは水田や畑が多く、特に綿の栽培がさかんでした。重治郎は
「藤源」という河内木綿の製造業を営んでいました。
いにしえより、このあたりは、金剛山、生駒山など自然も豊富で、近くの山々から
の水脈が良質の地下水となってこの地を流れています。重治郎はこの良質の地下水
を清酒造りに利用できないかと考え、丹精込めた自作の米と合わせて清酒造りに
転向したのです。うまい酒を造りたいをいう重治郎の願いは「冨士正宗」という銘
柄に実を結び、現在も「冨士正」として造り続けています。
重治郎から経営は昇治に引き継がれ更に雅一(ただひと)に引き継がれ現在に至っ
ています。当蔵では、製造した年に販売せず、蔵で数年間貯蔵します。本来は最低
でも2~3年は貯蔵した物を販売しています。
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解散~葛井寺
葛井寺・・・藤井寺市観光協会HPより
葛井寺(ふじいでら)は古代氏族葛井氏の氏寺として、7世紀後半の白鳳期に建立さ
れました。 西国三十三箇所観音霊場の第五番札所として信仰を集め、多くの巡 礼
者が訪れています。 本尊の国宝乾漆千手観音坐像は、大阪府下唯一の天平仏で、毎
月18日に御開帳されます。また、 四脚門は、桃山様式をよく伝える建造物として、
国指定の重要文化財となっています。
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藤井寺商店街
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王寺駅~自宅へ バスで途中下車
紅葉をおまけに・・・
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自宅で
鉢植えの琉球朝顔に漸く花芽が・・・
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