広陵町 花の寺「桜御坊」新家長福寺ー1
4月21日 広陵町 花の寺「桜御坊」新家長福寺ー1
新家長福寺が見えてきた
垣根の外の八重桜、他の3本は既に葉桜・・・
新家長福寺(しんけ・ちょうふくじ)山門
「赤長」(赤部長福寺)として親しまれています。慶秀さんのお寺です。境内
に桜が多く、地元の人からは「桜御坊」と呼ばれ、親しまれている。八重桜が
多い。
※慶秀さん(1554~1609)(生没年は寺伝書により記す)
本願寺12世教如上人の教学的側近。・慶秀は慶長10年(1605)に『正信念仏
偈私記』を、翌年に『三帖和讃私記』を著わすなど、高倉学寮創立、以前から
教学・教化の先駆的な役割を果たしました。慶秀は教如上人から本願寺寺内の
堀川七条に寺地を与えられ、長福寺と号していました。寺跡は、後に山科本願
寺の跡地に再建するため移築され、現在の山科別院長福寺(京都市山科区)と
して継承。
新家長福寺・・・長福寺沿革
天正元年(1573)、慶秀、大和国赤部に長福寺を開く。(長福寺の尊号を本山
より許される。)(寺伝書による)・元亀3年(1572)、19歳にして本願寺11
世顕如上人に謁し、随従帰敬し法名を得て慶秀と改める。その後、教如上人に
随い、京都堀川七条に寺地を与えられ、長福寺と号した。又、教如上人東本願
寺創立に際し慶秀は教如上人に随い大いに功があり、家康から箸尾城主に命じ
て大和国新家の山林を与えられた。長福寺第二代空円(第三代斉円とも)は、
拝領の地に新たに一宇を建立し、これも長福寺の号を戴いた(現在の新家長福
寺)長福寺第三代斉円没するに臨み、三長福寺を本願寺に寄付した。京都堀川
七条の長福寺を山科御坊と称し、新家の地の長福寺を本山の掛所とし、赤部の
地の長福寺を斉円に下付し持坊住職地と定めた。平成20年(2008)、慶秀400
回忌記念法要を勤め慶秀墓を修復し境内前庭に移設した。
山門~本堂の間に
石楠花が・・・
本堂の左側から
山門入って右に塔、左側から裏庭へまわる・・・
八重桜の足元にボタン
紫藤
藤棚
本堂裏の八重桜、足元にはボタン
本堂の裏庭の赤芽
此の続きは、
広陵町 花の寺「桜御坊」新家長福寺ー2 として
下記のメインブログへ詳細を投稿します。
https://taharas-amami-nara.blog.ss-blog.jp/
続きは、未だ本堂の裏庭の八重桜~
未だ本堂の裏庭の八重桜と足元のボタン
本堂の前~本堂の右側
白藤
藤棚
本堂の右前
八重桜、足元のチューリップ、ボタン
鐘楼
お寺を出て外からお寺を撮る
駐車場、三吉石塚古墳へ向かう
新木山古墳
馬見古墳群で中核をなす墳丘200mの前方後円墳である。古墳の築造時期は
円筒埴輪から古墳時代中期後葉と考えられる。埋葬施設の副葬品と考えられ
る勾玉、管玉、棗玉(なつめだま)などが宮内庁に保管されている。
三吉石塚古墳(みつよしいしづかこふん)
新木山古墳の西に築かれた東向きの帆立貝式古墳で、墳丘全長45m、直径
41.4m、高さ6.5mの後円部に幅22m、長さ7mの短い前方部が付いています。
周囲に馬蹄(ばてい)形の周濠が掘られ、更に外堤があり、堤を含めた全長は
62mとなります。墳丘は二段築成で、二段目には円筒埴輪の他に蓋(きぬが
さ)、短甲(たんこう)、家型埴輪が立てられていた。墳丘と周濠には葺石が
施され、葺石の作業単位がよく残る。前方部の南東隅には張出部が設けられ、
集合幅が狭くなっている。埋葬施設は未調査で、埴輪から古墳時代中期後葉
の築造と考えられている。
新家長福寺が見えてきた
垣根の外の八重桜、他の3本は既に葉桜・・・
新家長福寺(しんけ・ちょうふくじ)山門
「赤長」(赤部長福寺)として親しまれています。慶秀さんのお寺です。境内
に桜が多く、地元の人からは「桜御坊」と呼ばれ、親しまれている。八重桜が
多い。
※慶秀さん(1554~1609)(生没年は寺伝書により記す)
本願寺12世教如上人の教学的側近。・慶秀は慶長10年(1605)に『正信念仏
偈私記』を、翌年に『三帖和讃私記』を著わすなど、高倉学寮創立、以前から
教学・教化の先駆的な役割を果たしました。慶秀は教如上人から本願寺寺内の
堀川七条に寺地を与えられ、長福寺と号していました。寺跡は、後に山科本願
寺の跡地に再建するため移築され、現在の山科別院長福寺(京都市山科区)と
して継承。
新家長福寺・・・長福寺沿革
天正元年(1573)、慶秀、大和国赤部に長福寺を開く。(長福寺の尊号を本山
より許される。)(寺伝書による)・元亀3年(1572)、19歳にして本願寺11
世顕如上人に謁し、随従帰敬し法名を得て慶秀と改める。その後、教如上人に
随い、京都堀川七条に寺地を与えられ、長福寺と号した。又、教如上人東本願
寺創立に際し慶秀は教如上人に随い大いに功があり、家康から箸尾城主に命じ
て大和国新家の山林を与えられた。長福寺第二代空円(第三代斉円とも)は、
拝領の地に新たに一宇を建立し、これも長福寺の号を戴いた(現在の新家長福
寺)長福寺第三代斉円没するに臨み、三長福寺を本願寺に寄付した。京都堀川
七条の長福寺を山科御坊と称し、新家の地の長福寺を本山の掛所とし、赤部の
地の長福寺を斉円に下付し持坊住職地と定めた。平成20年(2008)、慶秀400
回忌記念法要を勤め慶秀墓を修復し境内前庭に移設した。
山門~本堂の間に
石楠花が・・・
本堂の左側から
山門入って右に塔、左側から裏庭へまわる・・・
八重桜の足元にボタン
紫藤
藤棚
本堂裏の八重桜、足元にはボタン
本堂の裏庭の赤芽
此の続きは、
広陵町 花の寺「桜御坊」新家長福寺ー2 として
下記のメインブログへ詳細を投稿します。
https://taharas-amami-nara.blog.ss-blog.jp/
続きは、未だ本堂の裏庭の八重桜~
未だ本堂の裏庭の八重桜と足元のボタン
本堂の前~本堂の右側
白藤
藤棚
本堂の右前
八重桜、足元のチューリップ、ボタン
鐘楼
お寺を出て外からお寺を撮る
駐車場、三吉石塚古墳へ向かう
新木山古墳
馬見古墳群で中核をなす墳丘200mの前方後円墳である。古墳の築造時期は
円筒埴輪から古墳時代中期後葉と考えられる。埋葬施設の副葬品と考えられ
る勾玉、管玉、棗玉(なつめだま)などが宮内庁に保管されている。
三吉石塚古墳(みつよしいしづかこふん)
新木山古墳の西に築かれた東向きの帆立貝式古墳で、墳丘全長45m、直径
41.4m、高さ6.5mの後円部に幅22m、長さ7mの短い前方部が付いています。
周囲に馬蹄(ばてい)形の周濠が掘られ、更に外堤があり、堤を含めた全長は
62mとなります。墳丘は二段築成で、二段目には円筒埴輪の他に蓋(きぬが
さ)、短甲(たんこう)、家型埴輪が立てられていた。墳丘と周濠には葺石が
施され、葺石の作業単位がよく残る。前方部の南東隅には張出部が設けられ、
集合幅が狭くなっている。埋葬施設は未調査で、埴輪から古墳時代中期後葉
の築造と考えられている。
2020-04-21 21:59
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