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奄美大島 加計呂麻島(大島海峡) 2016年

5月10日       奄美大島 加計呂麻島(大島海峡) 2016年
            2016年に帰省した時の加計呂麻島
奄美大島・・・鹿児島県です、
地理
面積712.35 km2で、本州などの4島を除くと佐渡島に次ぎ面積 3位の島である
(大きな方から順番に、沖縄本島-佐渡島-奄美大島)。年間の日照時間が日本一
短い。大島海峡沿岸や湯湾岳などは奄美群島国立公園の一部となっている。
奄美大島の海岸には、サーフィンに適した波がありサーファー達に人気がある。
台風の通過が多く、毎年のように崖崩れや農作物などへの被害が発生するほか、
2010年10月には記録的な豪雨が島を襲い甚大な被害が出た。
自然・・・興味ないかもしれませんが
山地にはスダジイ、イジュ、シマサルスベリ、ソテツ、ガジュマル、ビロウ、ヘ
ゴ、シマオオタニワタリなどの樹木が生え、海岸付近にはアダン、アカテツ、ハ
マビワ、シャリンバイ、クサトベラなどの低木が生えている。また、サトウキビ、
びわ、タンカン、ポンカン、バナナ、パパイヤ、マンゴー、メロン、パイナップ
ル、スモモ、パッションフルーツなどの温帯、亜熱帯植物が栽培され、リュウキ
ュウマツなどの植林が行われている。
奄美市の住用町に、日本では西表島に次ぐ広さのマングローブ(約71km2)があ
り、同市山岳部には、ヒカゲヘゴなどが生い茂る金作原(きんさくばる)原生林
がある。
    ☆奄美大島はこんな所です?
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デイゴ
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パパイア
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瀬戸内町嘉鉄湾
ハートの見える丘
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アダン
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サガリバナ
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極楽鳥花
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加計呂麻島 芝の海岸から大島海峡
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加計呂麻島 実久~芝の林道から無人島の江仁屋離&東シナ海
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歴史・・・興味ないかもしれないが 
旧石器時代~
奄美群島での人の痕跡は、約3万年前のものと推定されるアマングスク遺跡(徳
之島)で、南西諸島最古級の遺跡である。土浜ヤーヤ遺跡(奄美大島)、喜子川
遺跡(同)などは旧石器時代から縄文時代初期の遺跡と言われ、姶良カルデラの
火山灰(2万4000年前〜2万2000年前)と鬼界カルデラの火山灰(約6400年前)
も確認されている。
縄文時代~ 弥生・古墳時代~ は割愛して・・・
古代~
奄美の存在が日本の歴史書に登場するのは7世紀で、『日本書紀』には657年(斉
明天皇3年)に「海見嶋」、682年(天武天皇11年)に「阿麻弥人」、『続日本紀
』には699年(文武天皇3年)に「菴美」、714年(和銅7年)に「奄美」とあり全
て奄美(大島)のことだと考えられ、当時の日本の中央との交流があったことが
わかる。733年(天平5年)の第10回遣唐使は、奄美を経由して唐へ向かっている。
735年(天平7年)に朝廷は、遣唐使の往来上の利便のため碑を南島に建てた。
『延喜式』雑式には規定が書かれており、島名のほか停泊所や給水所が書き込ま
れ、奄美群島の各島々にこの碑が建てられたとしているが、未だ実物の発見は無
い。また、遣唐使に奄美語の通訳を置くことも記されている。ほか斉明5年(659
年)の第4回遣唐使の一船が百済南島から「爾加委」島(喜界島に比定)に漂着、
原住民に略奪に遭った記録がある。727年(神亀7年)を最後にしばらく奄美以南
南島人の記述は日本の国史からは途絶える。また九州太宰府庁跡などから奄美島
の他「伊藍嶋」(沖永良部島に比定)と書かれた木簡も出土している。
日本本土との関わり
本土(大和)からは、安元3年(1177年)の鹿ケ谷の陰謀により、俊寛が薩摩・
「鬼界ヶ島」に配流されたと伝わる。また、『吾妻鏡』元暦元年(1184年)の条
には、阿多忠景の乱を起こした伝・薩摩平氏の阿多忠景(伝・平忠景)が「鬼界ヶ
島」に逃亡、源頼朝が義経征伐を兼ねて同島を征討し地頭を置いたと記録される。
この「鬼界ヶ島」は、俊寛については喜界島に比定する説と、薩摩硫黄島に比定
する説とがある。吾妻鏡については不詳。
『漂到琉球国記』(1243年、後述)や臨済僧虎関師錬著『元亨釈書』(1322年)
では、日本から見て奄美大島を含めた南方の島々は日本の影響下にあり「貴海国」
と称され、いっぽう奄美より南の「琉球国」は異域と見做されていた。13世紀頃
の『平家物語』でも、奄美と沖縄は違うと捉えられていた。『漂到琉球国記』は、
肥前松浦党と天台僧慶政が「琉球国」のいずれか(奄美から台湾までのいずれか
は不明)に漂着、原住民と接触した様子が慶政により記されている。
奄美群島には、北隣のトカラ列島と同じく平家の落人伝説がある。平資盛が壇ノ
浦の戦いから落ち延びて喜界島に潜伏、のち平有盛、平行盛と共に奄美大島に入っ
たと言う。大島の名瀬浦上には平有盛神社が、大島の戸口には平行盛神社もある。
鎌倉、室町時代~ 奄美伝説時代~ 琉球時代~ は割愛して
近世~
1603年(慶長8年)、江戸幕府が開かれて日本が新時代に入ると、幕府は中国大陸
の明と通航を考えるようになり、薩摩藩主・島津忠恒に琉球王国に進出して明と通
じることを許可した。1609年4月8日(慶長14年3月4日)、島津軍3000名余りを乗
せた軍船が薩摩の山川港を出帆し、まず奄美大島へ上陸して制圧、次に徳之島、次
に沖永良部島を次々と攻略し。4月30日(3月26日)には沖縄本島北部の運天港に上
陸、今帰仁城を落として首里城へ迫った。尚寧は止む無く和睦を申し入れ開城した。
島津軍は5月8日(4月5日)に首里城を接収し(4月半ば)には薩摩に凱旋帰国した。
薩摩藩は奄美群島を割譲させて直轄地とし(ただし対外的には琉球の一部とされた)
1613年(慶長18年)、代官所(赤木名、名瀬等、その他多数)や奉行所を設置した。
中国や朝鮮からの難破船などに対応するため、引き続き王府の役人も派遣させていた。
この頃の奄美群島は、薩摩からは「道之島」と呼ばれた。
薩摩は住民にサトウキビ栽培を奨励したが、薩摩藩の財政悪化と共に中・後期には搾
取のようになり過酷になっていったといわれる。薩摩はサトウキビを原料とした黒砂
糖を幕府や商人に専売することで莫大な富を得たが、サトウキビ中心の栽培はひとた
び作物の不作が起こると飢饉に結びつくような有様だった。しかし、このころに黒砂
糖を使った「セエ」(黒糖焼酎)が誕生している。庶民の嗜好品として評判となり密
造酒が多数作られたが、黒砂糖の収穫が減ると困る薩摩藩がこれを取り締まらなけれ
ばならないほどだった。
近代~ ・・・明治12年に奄美群島は正式に日本の領域になる。
奄美群島は1871年8月29日(明治4年7月14日)の廃藩置県により一時的に薩摩藩から
鹿児島県へと実効支配が移管される。名目上は琉球王国の領域であったためそれが琉
球処分により消滅するまで形式的には日本の領域では無かったが、追って1879年(明
治12年)4月の太政官通達により大隅国に編入、大島郡および大島郡役所が設置され、
正式に日本の領域となる。

第二次世界大戦中、連合国軍上陸の危険が高まった1944年(昭和19年)7月以降、沖
縄と並んで子供や女性、高齢者の本土疎開が進められた。同年9月には疎開船「武洲
丸」が潜水艦に撃沈され、約160人の徳之島島民が犠牲となっている。このほか、近
海では軍隊輸送船「富山丸」など多くの日本船舶が撃沈された。1945年(昭和20年)
3月末からの沖縄戦の間、北隣の奄美群島には陸海軍合わせて2万人以上が守備に就い
ていた。特に奄美大島南部の瀬戸内町付近は要塞化(奄美大島要塞)が進められてお
り、特攻兵器である震洋の基地も数箇所に置かれていた。しかし、奄美群島への連合
国軍上陸は無く、全体として小規模な空襲だけに終わった。

現代 アメリカ占領時代~日本んへ復帰へ
1945年(昭和20年)9月2日、米軍によって本土から分割され米国民政府の統治下に
置かれた。同年9月22日に行われた現地守備隊と米第10軍とで交わされた降伏調印式
の際、日本軍守備隊は米軍側が用意した降伏文書に奄美群島が「北部琉球」と書かれ
ていることを発見、日本から分割する意図を悟り、鹿児島県所属であることを訴えて
調印しなかった。これには米第10軍司令官が譲歩し、鹿児島県奄美群島であることを
確認した後に降伏した。
ついに日本 本土へ復帰・・・昭和28年12月25日に米国より日本へ返還
日本国との平和条約の1952年(昭和27年)4月28日発効によって日本の主権が回復
することが決まると、アメリカは基地が少なく復帰運動の激しい奄美群島の統治を
諦め1952年(昭和27年)2月10日にトカラ列島が、奄美群島も1953年(昭和28年)
12月25日に返還。「日本へのクリスマスプレゼント」として返還を発表した。
文化
奄美大島を含む奄美群島は、大東諸島を除く沖縄県と共に琉球文化圏を構成する。
奄美語は琉球語の一部であり、基本的語彙や表現などの共通点も多い。これらは
国際的には独立した言語とみなされるが、日本語の方言とする研究者もいる。
一方で奄美群島では、島を代表する焼酎(奄美黒糖焼酎)やチヂン(日本では奄
美大島だけに残る締め太鼓)、高倉(高床式倉庫)は東南アジア方面から伝えら
れたとも言われる。
1185年の壇ノ浦の戦いで敗れ落ち延びてきた平家の落人たちにより、本土の文化
が伝えられ、幾つかの城砦が築かれたとの伝承も残り、ゆかりの有盛神社、行盛
神社があり、隣の加計呂麻島では平資盛を祀る大屯神社に重要無形民俗文化財の
諸鈍芝居(諸鈍シバヤ)が伝えられている。

古仁屋港到着・マグロ養殖日本一の町 瀬戸内町
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古仁屋港~加計呂麻島 瀬相港へ渡る
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奄美大島 加計呂麻島 2016年

加計呂麻島(かけろまじま)
加計呂麻島は、奄美群島内の島で、鹿児島県大島郡瀬戸内町に属する。真っ白
な砂浜とコントラストをなす青い海とが特徴的で、加計呂麻ブルーと呼ばれる。
加計呂麻島の地理
面積77.25km2で、大島海峡を挟んで奄美大島南岸と向かい合っている。また、
地形は細長く海岸線が複雑に入り組んでいるため海岸線長は147.5kmと長くな
っている。島内には小さな集落が30ヶ所程存在し、世帯数852、人口1,262人
(2017年8月末現在)。
加計呂麻島の産業
サトウキビ栽培、漁業。きび酢、黒糖焼酎の製造。観光(民宿、ペンション
など)。島内に大規模な商店はなく、島民の多くはフェリーかけろまで行け
る古仁屋港付近のスーパーマーケットでまとめ買いをする。
6月9日
朝めし前の砂浜散歩
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6月10日
朝めし前の砂浜散歩
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6月14日
朝めし前の砂浜散歩
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加計呂麻島の歴史
島の北側の薩川湾は太平洋戦争中、軍港として栄え大和や武蔵など連合艦隊
の戦艦が停泊したことで有名。また島内各所に特攻兵器震洋が配備され、出
撃命令を待っていた。このうち、呑ノ浦の第18震洋隊指揮官は島尾敏雄
(大尉)であった。
☆詳細に付いては、
6月6日~16日・奄美大島&加計呂麻島へ帰省-1~3 として
         下記のブログに投稿済です。
6月6日~16日・奄美大島&加計呂麻島へ帰省-1
   https://taharas-amami-nara.blog.ss-blog.jp/2016-06-20-2

6月6日~16日・奄美大島&加計呂麻島へ帰省-2
   https://tahara-nara-amami.blog.ss-blog.jp/2016-06-21

6月6日~16日・奄美大島&加計呂麻島へ帰省-3
  https://taharas-amami-nara.blog.ss-blog.jp/2016-06-21

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