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10月21日の歴史探訪の会(明智光秀終焉地)ー1

11月1日       10月21日の歴史探訪の会(明智光秀終焉地)ー1
             10月度歴史探訪の会例会 京都山科
京都市営地下鉄 小野駅に参加者15 名、明智光秀終焉の地・小栗栖及び周辺を訪れた。
本能寺の変
天正 10 年(1582)6 月 2 日早朝、明智光秀は本能寺の織田信長と二条城の嫡男信忠を
討った。なぜ光秀が信長を討ったのか?400 年以上にわたり謎は深まる一方・・・
明智光秀の最期
本能寺の変からわずか 11 日後の 6 月 13 日、明智光秀は、驚愕の中国大返しを果たし
た羽柴秀吉に山崎の合戦で敗れた。光秀が信長から付けられた与力大名、丹後の細川
藤孝や大和の筒井順慶が光秀軍に参陣しなかったのが痛かった。明智光秀は勝龍寺城
(京都府長岡京市)に退いたのち、夜陰に紛れて数名の近臣らと居城坂本城を目指し
て落ち延びていった。途中、山科小栗栖に差し掛かった時に竹藪から竹槍の襲撃に会
い、その場で落命したとも、しばらく進んだ所で側近に首を討たせたともいわれる。
襲ったのは小栗栖の武士集団である飯田一党という。天下人の何とも儚い最期・・・

地下鉄小野駅10時30分受付「京都SKY観光ガイド協会」のガイドさんと共にコロナ
感染対策として、全員手指消毒しマスク着用してスタート。
此の日の私の万歩計は、16545歩で約9.9㎞歩いた事に・・・
コース
小野駅~明智光秀胴塚~北小栗栖天神宮(きたおぐりすてんじんぐう)~山科川沿い
の公園で昼食休憩~明智藪・飯田一党の小栗栖城跡~本経寺(ほんきょうじ・供養塔)
~小栗栖八幡宮・八幡宮公園で小休止~天穂日命神社(あめのほひのみことじんじゃ)
・終礼(解散)~地下鉄石田駅
小野駅
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光秀胴塚へ向かう
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明智光秀胴塚
小野駅から 10 分ほど南に歩くと、府道沿いの一角に明智光秀の胴塚がある。明智藪で
襲撃を受けた光秀は、このあたりまで来たところで死を覚悟し、側近の溝尾庄兵衛に
介錯させて自刃したという。庄兵衛は首を隠し、遺体を郷民が埋葬した。しかし首は
すぐに敵兵に見つかり、遺体も掘り出されて、信孝と秀吉が 6 月15 日に本能寺の焼け
跡に晒した。さらに、首と胴体は繋ぎ合わされて、京都の粟田口に磔にされたという。
胴体が埋葬された「胴塚」が山科のこのあたりにあったとの言い伝えがあり、昭和 45
年、光秀を慕う地元山科の有志がこの地に胴塚を建立した。
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北小栗栖天神宮へ向かう
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北小栗栖天神宮(きたおぐりすてんじんぐう)
胴塚から府道に沿って10分ほど歩くと北小栗栖天神宮が有る。明智光秀は、この道を
北小栗栖天神宮から胴塚の方向に坂本城に向かって落ち延びようとしていたらしい。
大鳥居の向こうは急な石段が 100段あまり。
北小栗栖天神宮の祭神は伊佐那岐命と伊佐那美命。火災の為創立の年代は分からない。
口伝によれば、天智天皇の御代(670年ごろ)に藤原鎌足の長子 定慧が創建したと伝え
られる法琳寺の鬼門除けに、この地に天神社が建立されたとの事である。以来 1300 年
余り、当天神宮は北小栗栖の産土神として地元の人々の崇敬を受け、親しまれている。
※藤原鎌足の長子 定慧(じょうえ):藤原不比等の 16 歳年上の兄
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公園へ向かう
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山科川沿いの公園で昼食休憩
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明智藪へ向かう
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此の続きは、
10月21日の歴史探訪の会(明智光秀終焉地)ー2 として
        下記のメインブログへ詳細を投稿します。
        https://taharas-amami-nara.blog.ss-blog.jp/
続きは、明智藪・飯田一党の小栗栖城跡~
明智藪・飯田一党の小栗栖城跡
明智藪という名前から、周りはすべて竹藪と想像していたが、着いてみると結構開け
ていた。先の台風でたくさんの竹が倒れて、危ないから切ったとのこと。竹が鬱蒼と
していたころは不気味で、通るのも怖かった、と地元の飯田さんが語ってくれた。
明智光秀を討ったのは小栗栖の武士集団 飯田一党である、と説明板に書いてある。
飯田一党の末裔の飯田さんが現在もこの地に住んでおられる。明智藪でその飯田さん
から説明を聞いた。明智藪の真向かい、たくさんの竹の切り株が残る小高い丘が小栗
栖城跡という。一説には小栗栖八幡宮が小栗栖城跡との資料もあるが、それは間違い
とのこと。小栗栖城主は飯田氏で、明智藪の真ん前にある小栗栖城から出撃した??
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本経寺へ向かう
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本経寺(ほんきょうじ・供養塔)
明智藪は本経寺の境内にある。久遠山本経寺は日蓮本宗の寺である。平成 10 年 6 月、
ご住職が境内に供養塔を立て、悲運の武将明智光秀公に供養を捧げて歴史の一端を伝
えている。石碑には、「明智日向守光秀公供養塔」とある。
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小栗栖八幡宮・八幡宮公園で小休止
本経寺から 5分ほど住宅街の緩い坂道を下ると小栗栖八幡宮の赤い鳥居に至る。此処が
小栗栖城跡との情報があるが、先ほ明智藪の説明をしてくれた飯田さんによるとそれは
間違いで明智藪の真ん前にある竹の切り株が残る小高い丘が小栗栖城跡だという。
神社の祭神は、応神天皇、仲哀天皇(応神天皇の父)、神功皇后(仲哀天皇妃、応神天
皇の母)。神社の創建は平安時代の貞観 4 年(864)、紀興道が男山八幡宮の分霊を勧
進して創建した。室町時代から江戸期まで飯田氏が神主を勤めた。
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神社の下は八幡宮公園になっていて、公園奥に子安地蔵の祠がある。安産のご利益があ
るという。日本三体地蔵のひとつといわれ、沢山のよだれかけがかかっていて、地元の
人たちの信仰の厚さがうかがえる。
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山科川を渡り
天穂日命神社へ向かう
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天穂日命神社(あめのほひのみことじんじゃ)・終礼(解散)
祭神は、天穂日命。古事記によれば、須佐之男命が天照大御神から 5 つの玉の緒を受け
取り、聖水をふりかけ、口の中で粉々に噛み砕き、霧状の息を吐き出すと 5 柱の男神が
生まれた。その中の 1 柱が天穂日命だったという。葦原中つ国の平定のために、八百万
の神々から最初に遣わされたのが天穂日命であったが、大国主命に媚びへつらって 3 年
経っても報告をしなかったという。
当神社は延喜式神明町に載る天穂日命神社に比定される。現在の本殿は天明 3 年(1873)
の造営である。正面の柱間が2間という、京都市内ではほとんど例を見ない二間社流造形
式の建物である。閑静な境内は「万葉集」などの和歌の名所「石田の杜(いわたのもり) 」
とされ、神社の入口には歌碑が建っている。(参考、最寄駅は石田(いしだ)駅である)
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終礼?
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地下鉄石田駅
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