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10月31日の近鉄 飛鳥駅~橿原神宮前駅-1

11月12日         10月31日の近鉄 飛鳥駅~橿原神宮前駅-1
                   近鉄ハイキング
久し振りに知人のK場さん、H田さん、I田さん、S藤さん、Y田さん達と6名で近鉄
ハイキング参加、飛鳥駅~橿原神宮前駅迄10㎞コースを途中ショートカットで歩いた。
本来のコース
飛鳥駅~猿石~亀石~甘樫丘地区(国営飛鳥歴史公園)~飛鳥資料館~万葉文化館~
雷丘(いかずちのおか)~橿原神宮前駅 約10㎞コース 
実際に歩いたコース・・・飛鳥京跡苑池 発掘調査現場に立ち寄る
飛鳥駅~天武・持統天皇陵~亀石~橘寺~飛鳥京跡苑池発掘現地~入鹿首塚~飛鳥寺
~明日香村埋蔵資料館~甘樫丘~雷丘(いかずちのおか)~剣池・孝元天皇陵古墳~
橿原神宮前駅  約8㎞コースにショートカットして歩いたつもりだったが。
此の日の私の万歩計は、19726歩で約11.8㎞歩いたことに・・・ 
吉野口で乗換
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飛鳥駅
紅葉したコキアがお出迎え
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天武・持統天皇陵
天武天皇とその皇后で皇位を継承した持統天皇の合葬墳墓。 直径50m、高さ6.36m。
円墳とも八角墳ともとれるこの古墳の石室は八角形で、金銅製の蔵骨器がのっている。
天武天皇は古代律令国家体制の基礎を築き、持統天皇がその志を継いだ。また、持統
天皇は天皇として初めて火葬された人物としても知られる。鎌倉時代に盗堀された時
の記録が残されていたことから、被葬者が確実となった。
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古墳の横を降りて亀石へ向かう
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亀石へ向かう
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亀石
亀石(かめいし)とは、奈良県明日香村川原にある亀の形をした遺構。長さ3.6m、
幅2.1m、高さ1.8mの巨大な花崗岩に亀に似た彫刻が彫られていることからこの名前
で呼ばれている。ユーモラスな顔つきから明日香村観光のシンボルともなっている。
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※亀石伝説
言い伝えによれば、奈良盆地一帯が湖であった頃、対岸の当麻(たいま)のヘビと
川原のナマズの争いの結果、当麻に水を吸い取られ、川原あたりは干上がってしま
い、湖の亀はみんな死んでしまった。亀を哀れに思った村人たちは、「亀石」を造
って亀の供養をしたという。
亀石は、以前は北を向き、次に東を向いたと言う。そして、今は南西を向いている
が、西に向き、当麻のほうを睨みつけると、奈良盆地は一円泥の海と化す、と伝え
られている。

橘寺・川原寺へ向かう
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橘寺・川原寺
橘寺
厩戸皇子(聖徳太子)生誕の地とされ、太子建立の七ヶ寺の一つです。建物は何度
も焼失し、現在の伽藍は江戸時代以降のものですが、美しいタチバナ形の塔心礎
が当時を物語っています。謎の石造物のひとつ「二面石」があるのもこの橘寺です。
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川原寺跡
飛鳥寺、薬師寺、大官大寺とともに飛鳥四大寺に数えられ、斉明天皇の冥福を祈り
息子の天智天皇が建立したとも言われていますが、未だ創建については謎が多く
残されているお寺です。創建時の姿は飛鳥資料館の模型で見ることができます。
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飛鳥川を越えて飛鳥京跡苑池へ向かう
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飛鳥京跡苑池・・・発掘調査現場に立ち寄る
飛鳥京跡苑池は、飛鳥川右岸の川岸段丘上に立地する飛鳥時代の庭園遺跡です。
平成11年に橿原考古学飛鳥京跡苑池研究所が実施した発掘調査で初めてその存在
が明らかになった。日本最古の庭園と言われている。
案内所で資料を受け取って
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発掘調査現場へ向かう
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発掘調査現場
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此の続きは、
10月31日の近鉄 飛鳥駅~橿原神宮前駅-2 として
      下記のメインブログへ詳細を投稿します。
      https://taharas-amami-nara.blog.ss-blog.jp/
此処では、続きの 蘇我入鹿首塚・飛鳥寺へ向かう~
蘇我入鹿首塚・飛鳥寺へ向かう
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蘇我入鹿首塚・飛鳥寺
※蘇我 入鹿(そが の いるか)
蘇我 入鹿は、飛鳥時代の豪族。蘇我蝦夷の子。大臣として大和朝廷の有力者であっ
たが、乙巳の変において討たれ、その後蘇我氏が凋落するきっかけとなる。
644年(皇極天皇3年)11月には甘樫丘に邸宅を築き、これをそれぞれ「上の宮門
(みかど)」「谷の宮門」とし、さらに自分の子女達を皇子と呼ばせた。また、畝
傍山に要塞を築き、皇室行事を独断で代行した。これらの政策により、入鹿は実質
最高権力者としての地位を固め、その治世には人々は大いに畏敬し、道に落ちてい
るものも拾わなくなったと言われた。しかし、そのような入鹿の天下は長くは続か
なかった。古人大兄皇子の異母弟で、皇位継承のライバルだった中大兄皇子(後の
天智天皇)・中臣鎌足らのいわゆる乙巳の変のクーデターによって、飛鳥板蓋宮の
大極殿において皇極天皇の御前で殺害された。
討たれた首が600m離れたこの地迄飛んで来たとされ、此処に首塚が建てられた。
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飛鳥寺(あすかでら)
飛鳥寺は、奈良県高市郡明日香村にある寺院。現在は安居院という。蘇我氏の氏寺
である法興寺(仏法が興隆する寺の意)の後身である。本尊は「飛鳥大仏」と通称
される釈迦如来、開基(創立者)は蘇我馬子である。山号を鳥形山(とりがたやま)
と称する 。現在の宗派は真言宗豊山派。新西国三十三箇所第9番札所。
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明日香村埋蔵資料館へ向かう
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明日香村埋蔵資料館(明日香村埋蔵文化財展示室)
明日香村大字飛鳥にあります「明日香村埋蔵文化財展示室」展示室では、明日香村
文化財課が発掘調査を行ってきた遺跡の出土品を中心に展示を一新いたしました。
小さいお子さんから大人まで、明日香村の文化財に触れていただく良い機会になる
と思います。旧飛鳥小学校の建物を利用しているから、ちょっとレトロな雰囲気。
利用時間: 午前9時から午後5時まで (入館は午後4時30分迄)。年末年始は休日。
入場料 : 無料。土・日・祝日については、解説員を配置しています。
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あすか夢の楽市
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甘樫丘
標高148mの、東西数百m、南北1kmほど広がる丘陵である。丘全体が国営飛鳥歴史
公園甘樫丘地区となっている。丘の北側には甘樫丘展望台、南側には河原展望台が
整備されており、明日香村内や橿原市内の大和三山や藤原京などの風景を望むこと
ができる。散策路は万葉集などで歌われた植物が植えられた「万葉の植物園路」が
整備されている。
麓で昼食を済ませて展望台へ
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甘樫丘を下る
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甘樫丘を出て
雷丘へ向かう
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雷丘(いかずちのおか)・・・写真は無し
雷丘は、奈良県高市郡明日香村大字雷にある標高110mほどの丘。
「大君は神にしませば天雲の雷の上に庵りせるかも」柿本人麻呂の句が残っている。
小墾田宮(おはりだのみや)跡
小墾田宮は、飛鳥時代の推古朝および奈良時代の淳仁朝・称徳朝の宮殿。「小治田
宮」とも書く。近年の発掘調査で、雷丘とその周辺にあった可能性が高いとされて
いる。• 雷丘東方遺跡出土 「小治田宮」墨書銘土器 明日香村埋蔵文化財展示室展示。
• 雷丘東方遺跡出土 井戸枠 明日香村埋蔵文化財展示室展示。
※雷城
築城時期や築城者は不明だが中世の城郭と見られる跡が残っている 。丘の中央に主
郭、南と東に一段下げた曲輪、空堀を挟んで西側に曲輪、更に西に一段下げた曲輪、
北に空堀から続く曲輪が置かれていた。飛鳥時代までの遺構はこの頃に破壊された
と推測されている。
発掘調査
2005年(平成17年)11月、発掘で埴輪の欠片などが見つかり小子部栖軽(ちいさこ
べのすがる)の古墳墓である可能性や雷神伝説(後述)との関連をうかがわせた 。
雷山の東南麓は飛鳥時代から奈良時代の遺跡が数多く残り、現在も発掘調査が続け
られている。
雷神伝説
『日本霊異記』(上巻巻頭)と『日本書紀』 に雷丘に関連する伝承が記されている。
雄略天皇が后と寝ている寝所へ、家臣の少子部栖軽(ちいさこべのすがる)が気付
かずに入ってしまい、天皇に「雷神を捕らえてこい」と命じられる。栖軽は豊浦寺
と飯岡の間にある丘に落ちていた雷神を連れ帰り天皇に献上するも、天皇は光り輝
く雷神に恐れをなし「落ちていた所へかえしてこい」と命じる。この雷神が落ちて
いた所を雷岡(雷丘)という。

橿原神宮前駅へ向かう
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剣池・孝元天皇陵古墳・・・孝元天皇陵(こうげんてんのうりょう)・剣池
橿原市の南部、石川池(剣池(つるぎいけ))のほとりにあるのが、第8代孝元
(こうげん)天皇の陵、剣池島上陵(つるぎのいけしまのえのみささぎ)です。
石川池はかって剣池(つるぎのいけ)と呼ばれていた潅漑用のため池である。
堤防の上に登ると、広々とした水面が広がり、樹木で覆われた第8代孝元天皇陵
が水面に黒い影を落としている。一見すると、周濠を巡らした御陵のように見え
るが、そうではなく陵墓が作られてから随分たってからこの溜池が作られている。
『日本書紀』には、第15代応神天皇の11年冬10月、軽池、鹿垣(かのかき)
池、厩坂(うまやさか)池と共に剣池を造った、とある。
『日本書紀』にはもう一度剣池に関する話が登場する。 皇極天皇3年(644)の
6月、すなわち大化改新の丁度一年前に、剣池で一本の茎から二つの花を咲かせ
た珍しい蓮が見つかり、当時繁栄の絶頂期にあった蘇我本宗家の蝦夷(えみし)
は、「これは、蘇我臣が栄えるという目出度い前兆だ」と勝手に考え、金泥で蓮
の花を描かせ、大法興寺(飛鳥寺)の丈六の仏に献上した。皮肉なものでそれか
ら一年後、蘇我蝦夷・入鹿親子は中大兄皇子や中臣鎌足らが起こしたクーデター
によって滅ぼされる運命にあった。
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孝元天皇
日本書紀によると孝元天皇の名は、大日本根子彦国牽尊(おおやまとねこひこく
にくるのすめらみこと)と言い、父は第7代孝霊(こうれい)天皇です。都を大和
の軽の境原宮に置いたとされ、その場所は現在の橿原市大軽町付近にあたると考
えられています。
※孝元天皇は、穂積臣らの祖先である内色許男命(うつしこをのみこと)の妹・
内色許売(うつしこめ)命を皇后に立てた。皇后は、二男一女を生んだ。第一の
子が大彦(おおびこ)命、第二の子が後の開化天皇、第三が倭迹迹姫(やまととと
ひめ)命という。第一子の 大彦命は後の崇神天皇の時代に将軍として北陸道に派
遣された人物。皇后の他に、二人の妃を娶った。伊香色謎(いかがしこめ)命は
彦太忍信命(ひこふつおしのみこと) を生み、別の妃の埴安媛(はにやすひめ)
は武埴安彦命を生んだ。 彦太忍信命は、景行から仁徳までの六代の天皇に仕えて
300歳まで生きたという伝説を持つ武内宿禰(たけちのすくね)の祖父である。
武埴安彦命後に崇神天皇のとき反乱をおこした ことで知られている。
更に、『古事記』では武内宿禰の9人の子供(男7人、女2人)の名をあげ、武
内宿禰の後裔とされる氏族を 列挙している。その中には、波多臣、巨勢臣、蘇我
臣、平群臣、木臣など臣(おみ)姓の地方豪族の名がある。これらの地方豪族は
後世に共同の祖として武内宿禰を構想し、 その系譜の上流を皇族に結びつけて箔
をつけている。
池の向こうは孝元天皇陵
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橿原神宮前駅へ向かう
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橿原神宮へのイチョウ並木
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橿原神宮前駅
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おまけ
橿原オークホテルでお土産にショートケーキを買って
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