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9月11日のリーダーと歩こう・日本最古の橋とコリアタウンー1

9月12日       9月11日のリーダーと歩こう・日本最古の橋とコリアタウンー1
                   JRふれあいハイキング 10㎞コース
此の日は、JRふれあいハイキングに1人で参加、参加者97名、大坂城公園噴水前~鶴橋駅迄
歩き、汗かきの私は大汗をかいて歩いたが木陰はわりと凄し易く皆さん涼しそうに?歩いてた。
コース  JRふれあいハイキング 大阪・関西歩け歩け協会主催  参加費@300円
森ノ宮駅~5分~大阪城公園噴水前(10時集合)~難波宮跡~玉造カトリック教会~玉造稲荷
神社(水分補給)~三光神社~旧真田山陸軍墓地~真田山公園(トイレ休憩)~産湯稲荷神社
~上本町6~上本町9~五条運動公園(昼食休憩)~桃谷駅前~鶴の橋跡~御幸橋(ゴール)~
(自由散策)コリアタウン~御幸森天神宮~彌榮神社~鶴橋本通商店街~鶴橋駅
此の日の私の万歩計は、17113歩で約10.2km歩いたことに・・・
森ノ宮駅
大阪城公園噴水、噴水前の木陰に集合
大阪城公園
大坂城特別史跡地に所在する広大な歴史公園である。
公園内には樹木が多く植えられ、二の丸市正曲輪の梅林、北外曲輪の桃園、西の丸庭園の
桜など、花見シーズンには梅・桃・桜の名所となっている。また、杉山地区は森林公園となって
おり、外濠の水辺に集まる野鳥を眺めて家族連れが憩う姿も見られ、都会のオアシスとして
市民から愛されている。
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朝礼&柔軟体操
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出発
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難波宮跡へ向かう
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難波宮跡
難波宮(なにわのみや)は、飛鳥時代・奈良時代の難波(現在の大阪市中央区)の上町台地
の先端付近にあった古代宮殿。
前期難波宮
乙巳の変ののち、645年に孝徳天皇は難波(難波長柄豊崎宮)に遷都し、宮殿は652年に完
成した。天皇制の始まり、元号の始まりである大化の改新とよばれる革新政治はこの宮でお
こなわれた。この宮は建物がすべて掘立柱建物から成り、草葺屋根であった。『日本書紀』に
は「その宮殿の状、殫(ことごとくに)諭(い)ふべからず」と記されており、ことばでは言い尽く
せないほどの偉容をほこる宮殿であった。
孝徳天皇を残し飛鳥(現在の奈良県)に戻っていた皇祖母尊(皇極天皇)は、天皇が没した後、
655年1月に飛鳥板蓋宮で再び即位(重祚)し斉明天皇となった。683年(天武12年)には天武
天皇が複都制の詔により、飛鳥とともに難波を都としたが、686年(朱鳥元)正月に難波の宮
室が全焼してしまった。
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玉造カトリック教会
カトリック玉造教会マリア大聖堂
カトリック玉造教会のHPより
1894年、この玉造の地に聖アグネス聖堂が建てられ、マリー神父が初代主任司祭となって
玉造教会が誕生しました。その聖堂は戦災によって焼失しましたが、その後、仮聖堂を経て、
ザビエル来日400年記念の年に建設された聖フランシスコ・ザビエル聖堂に引き継がれ、
1963年3月に、現司教座聖堂「聖マリア大聖堂」へと生まれ変わりました。その大聖堂の西
北には、細川越中守の屋敷跡と伝えられている「越中井」が残されており、細川ガラシア夫
人を記念して辞世の句碑が建っています。現在の聖マリア大聖堂は、鉄骨鉄筋コンクリート
建て、建坪2450平方メートル、軒高20メートル、青銅板葺きの大伽藍です。大小およそ100
個の窓は、通風窓をのぞき、ステンドグラスで、イエス・キリストの生誕と洗礼、聖母マリアの
生涯、そして小聖堂には日本人に福音を伝える聖フランシスコ・ザビエルが描き出されていま
す。 大聖堂前広場の両端には、高山右近と細川ガラシア夫人の石像が有ります。
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玉造稲荷神社(へ向かう
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玉造稲荷神社(水分補給)
当神社は垂仁天皇18年(西暦 紀元前12年)の秋に創祀されたと伝えられ用明天皇3年
に改築。聖徳太子が仏教受容問題で物部守屋公と争われた際、この玉作岡に陣を敷き
「我に勝を与えるならこの栗の白木の箸に枝葉を生じさせ給え」と祈願されたとところ、後
に枝葉が生じ、この戦いも無事に終わったといわれています。その後、天正4年の兵乱に
より本・末社、旧記等ことごとく焼失しましたが、慶長8年に豊臣秀頼公により社殿、高殿
(舞台)が再建されました。大坂の陣で、当地は再び戦地となり被害をうけましたが、元和
5年に徳川幕府の大坂城代 内藤紀伊守を始め氏子・崇敬者の寄進を以って再建。別称は
豊津稲荷神社とも呼ばれ豊臣・徳川時代を通じ「大坂城の鎮守神」として崇敬されたことが、
史料に残っています。江戸時代には伊勢参りの出発点とされた。文久3年(1863年)11月
の大坂大火(新町焼)で焼失するが、1871年(明治4年)に再建。現在の「玉造」の社名は
鎮座地の地名によるもので、一帯は古代、勾玉などを作っていた玉作部の居住地であった
という伝承がある。
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三光神社へ向う
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三光神社
当神社は大阪城東南の丘陵(上町台)真田山に鎮座し昔は姫山神社(大昔の姫の松原
の遺称)と称したが、全国的には真田山の三光の名称の方がよく知られ今では三光神
社となった。創立は仁徳天皇から三代後人皇十八代反正天皇の御宇と言い伝えられ創
建以後神職として奉仕された武内宿弥の末裔武川氏(八十六代)にして今に至ると言う。
当神社は古来より日本全国で唯一の中風除の神として広く知られ毎年恒例の神事とし
て六月一日を祈願の初日と定め七日間往古より今に至るまで変わることなくとり行われ
全国各地からの参拝者が絶えない。
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真田幸村像&大阪城への抜け穴&水分補給
真田幸村の像
真田の抜け穴脇に真田幸村公の陣中指揮姿の銅像を建立(昭和62年5月5日)、
その台座に信州上田の真田家の菩提寺である長谷寺より取り出した石(名付けて
真田石)が置かれている。
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真田の抜け穴
大坂城の出城のあった処で慶長元和の大阪合戦の頃真田幸村が此の地に偃月城
(えんげつじょう)と名付ける塁を定め本城よりここに至るまで地下に暗道を設けたと
言い伝えられ今なおその跡を三光宮鎮座の階下にあり。
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旧真田山陸軍墓地へ
※旧真田山陸軍墓地
この墓地は明治4年の創設で、日本でもっとも早く設置された陸軍墓地である。墓地には
西南の役、日清日露及び今次大戦に至る戦没者将兵ら5,300余柱もの墓石が整然と並
び霊堂には43,000余柱の遺骨が祀られている。外国人名が刻まれた墓石も有るとか・・
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旧真田山陸軍墓地~真田山公園(トイレ休憩)
真田山公園(トイレ休憩)
真田山公園は、1939年(昭和14年)大日本帝国陸軍騎兵第4連隊跡地を整備して開園
した。1889年(明治22年)から1932年(昭和7年)の南河内郡金岡村移転まで、当地には
騎兵第4連隊の兵営が置かれていた。現在は大阪府立天王寺スポーツセンター(真田山
プール・アイススケート場)、大阪市立真田山野球場、真田山庭球場が設置されている。
公園周辺は、1614年の大坂冬の陣で真田信繁(幸村)が活躍した古戦場として知られ、
公園の北側には旧真田山陸軍墓地がある。
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此の続きは、
9月11日のリーダーと歩こう・日本最古の橋とコリアタウンー2 として
           下記のメインブログへ詳細を投稿威します。
          https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、産湯稲荷神社へ向う~
産湯稲荷神社へ向う
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産湯稲荷神社
当社は比売許曽神社の旧社地にあり、現在は御旅所で末社となっている。
現地に掲げられていた社記によると「当地の開拓神である大小橋命(おおおばせのみこと)
は天児屋根命の十三世の後胤で、13代成務天皇の御代(4世紀頃?)、ここ味原郷に誕生
した。その時、境内の玉の井の水を汲んで産湯に用いたので、この地を「産湯」という。 父は
神功皇后の近臣中臣雷大臣、母は紀氏清夫と言い、3人兄弟の長男である」としている。
すなわち、大化の改新で活躍した藤原家の祖、中臣鎌足の先祖に当る人である。 この誕生
のときの胞衣を埋めたと伝わる胞衣塚が比売許曽神社の近くにある。また、一説では生野区
にある御勝山は大小橋命の墓であるとも言われ、この地には大小橋命に関わる伝承は多い。
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上本町6~上本町9~五条運動公園(昼食休憩)~桃谷駅前へ向かう
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桃谷駅前
※桃谷駅
江戸、明治時代に桃畑が続いて「桃山」「桃谷」と呼ばれた事が駅名の由来です。当初
は桃山駅でしたが、明治38年(1905)に伏見桃山駅と混同するので改名しました。太古
の昔は此の辺りは河内湖が広がって大陸の交易船が行き交ったといいます。桃も中国
の舶来植物ですが、大陸文化の香りを感じる駅名です。
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桃谷商店街
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鶴の橋跡
『日本書紀』仁徳天皇14年の条に、猪甘津(いかいのつ)に小橋(おはし)を作った記事が見
える。記録に残る日本最古の橋で、それは平野川(旧大和川)に架けられたものである。名の
由来は、鶴が多く集まっていたからとも言われた。また、「津の橋」がなまったからとも言われ
ている。明治7年、平野川浚渫のとき木橋から石橋に架け替えられた。
そのときの親柱を記念に残し大きな橋跡の碑が建てられた。河内湖の小橋の江と呼ばれた入
り江には、百済川(後の平野川)が注ぎ込んでいたのですが、その河口付近には、人や物資を
運ぶ猪甘津(いかいのつ)と呼ばれる港が設置されていて、たいへんな賑わいだったのだそう
です。その場所に架けられた猪甘津橋(いかいつのはし)は、まさに古代の交通の要所でした。
高津宮(こうづぐう)のあたりには、その昔、仁徳天皇が政治を行った高津宮(たかつのみや)
があったとされていますから、天皇のおわす都から官道が河内へ、そして大和へとつながって
行く・・そのための橋だったわけです。やがて、江戸時代の頃から、この橋は鶴橋(つるのはし)
と呼ばれるようになります。
猪甘津橋が鶴橋と呼ばれるようになったのは、この橋の北のあたりに鶴が多く集まった事から
とも、猪甘津を略して津(つぅ)の橋と呼ばれていたのが、いつしか変化した物だとも言われます。
明治七年(1874年)に、鶴の橋は石橋に架け替えられます。そんな日本最古の橋も、大正12年
(1923年)の耕地整理によって、平野川がルート変更となり、新平野川となったため、不要となっ
た旧平野川が埋め立てられてしまい、鶴の橋も廃橋となり、其の使命を終えました。江戸時代に
は、長さ二十間(36.4m)、幅七尺五寸(2.3m)もあった巨大な橋は、この時に、歴史の彼方へと
消え去ったのです。
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御幸橋(ゴール)~(自由散策)コリアタウン
御幸橋~コリアタウンを撮る
生野(いくの)コリアタウンは大阪市生野区の北東部、鶴橋駅から南東へ800mほどの 所
にあるまちです。御幸(ごこう)通りは市道上新庄生野線(通称「疎開道路」)との 交点から
東へ、平野川に架かる御幸橋まで、東西約500mにわたって伸びる商店街。
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生野コリアタウン
御幸通の3商店街(通称:生野コリアタウン)は1600年の歴史ある御幸森神社のお膝元、東
西450m程に約120店舗が軒を連ねる商店街です。大正時代に旧猪飼野と呼ばれた。人口
の増加に伴い市街化していく中、鶴橋公設市場が開設され、日本にある一般的な商店街と
して発展していきました。現 在の生野区(当時は東成区(郡)の一部)は大正時代、大阪が大
大阪(だいおおさか)と呼ばれた当時急速に市街化していき、多くの中小零細企業が集まりま
した。生活の苦しかった朝鮮半島の人々は既に韓国併合が行われていたことにより、日本に
職を求めて移住するようになります。特に大正末期に就役した「君が代丸」により、済州島か
らの移住者が増大します。その人々こそ経済成長著しい大 阪の中小零細企業にあって特に
避けられがちな労働や雇用需要を担ったのです。出稼ぎ労働者が増えてくると、今度は同胞
を相手に商売(といってもゴザに物品・食品を並べる程度)を行い始る人々が現れ、その界隈
が朝鮮市場と呼ばれるようになります(現在の御幸通の裏手)。戦 争が激化し大阪にも空襲
が行われると、それまで御幸通で商売をしていた旧日本人店主たちが疎開を始めるようにな
ります。疎開の際、「店舗は空襲の被害にあうかもしれない」「ほうっておいては店舗・家屋が
痛む」と考えた旧店主達は、それらを安く貸したり売ったりするようになりました。この時、御幸
通の裏手で商売をしていた人たちを始めとして在日韓国・朝鮮人達が御幸通で店舗を構える
ようになります。この頃を境に御幸通商店街が特異な商店街としての発展を見せ始めます。
昭 和30年代~50年代前半にかけては日本の高度経済成長もあり、韓国・朝鮮の食品や物品
がひとところに集まる商店街としてその隆盛期を迎えます。近隣の在日韓国・朝鮮人だけでな
く、大阪府下を始め近畿地方の各地から仕入れに訪れる業者で商店街がひしめき合う状態で
した。ところが昭和50年代後半頃から陰りを見せ始めます。最初期の渡航者から数えると50
年程経つ中で、在日韓国・朝鮮人の生活様式の変化、日本経済の成熟、後継者の不在等来
街者が目に見えて減少していきました。そんな時、危機感を覚えた当時の商店主達が、御幸
通をただの商店街で終わらせるのではなく新たな顧客を呼びこむために御幸通を特色ある商
店街として訴求していく"コリアタウン構想"を掲げます。しかし当初コリアタウン構想を立ち上げ
たとはいえ、社会見学やフィールドワークの学生等、新しい来訪者の方への対応に商店主達が
戸惑いを見せるような状態でしたが、特徴的な門や舗装道路が完成し、その後日韓共催ワール
ドカップ、冬のソナタに始まる韓国文化への関心が高まると、コリアタウンとして商店街に注目が
集まるようになりました。現 在ではお買い物のお客様だけなくフィールドワークや社会見学、修
学旅行の来街者も年々増加しております。
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御幸森天神宮
御幸森天神宮(みゆきのもりてんじんぐう)は、大阪府大阪市生野区(旧摂津国東生
郡猪飼野村)にある神社である。 仁徳天皇、少彦名命、忍坂彦命を祀る、猪飼野村
の氏神である。
御幸森天神宮のある地域は古くから猪飼野(いかいの)と呼ばれ、猪甘津(いかいの
つ)と呼ばれる古代の港があったことに由来する。猪甘津は日本書紀仁徳天皇十四
年の条に記され、猪甘部(いかいべ)と呼ばれる官職を務める者が住んでいた。猪甘
部は朝廷への貢物として豚を飼育する役を司っていた。また付近は百済野と呼ばれ
百済からの渡来人が多く住んでいた。水鳥が集まる景勝地であったとも伝えられてい
る。伝承によれば、仁徳天皇が鷹狩や渡来人の様子を見聞する御幸に際して、度々
この地の森で休憩したことから御幸の森と呼ばれるようになったとされる。仁徳天皇
崩御の後の反正天皇2年406年、天皇の神霊を祀る社が建立され、御幸の祠や御幸
宮と称されたと伝えられている。
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コリアタウンを抜けて彌榮神社へ
彌榮神社
彌榮(やえい)神社は、文禄年間(1592年~1595年)に島根県八束郡(旧出雲國意宇郡)
の旧國幣大社熊野神社より御分霊を移して御祭りしたと旧記にあります。創立以来、旧木
野村の鎮守として崇敬厚く、宮座を設けて祭事を奉仕していました。明治5年村社に列せ
られ、神職を置き奉仕し、また社号もこの時に彌榮神社と改めました。
弥栄神社は、御幸森天神宮と並んで、コリアンタウンに鎮座する仁徳天皇と大変縁の深い
神社として有名です。弥栄神社は古くから地元の氏神様として、鶴橋・桃谷の人々に篤い
信仰を集めている歴史ある神社。特にこの界隈は、商店街通りとして、個人商店が多く立
ち並ぶので、商売繁盛の神としてお稲荷さんにお参りする人も多く、お参りが絶えない神
社として、地元の人たちに愛されています。
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屋榮神社~鶴橋本通商店街を通って鶴橋駅へ
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鶴橋本通商店街
鶴橋駅前に広がる「鶴橋商店街」の歴史は古く、1947年に鶴橋国際商店街連盟として結
成したのが始まりです。連盟には、5か国の人々が集結し、会員数は1,200人を上回り、
店舗数は300を超えたといわれています。鶴橋商店街振興組合・鶴橋西商店街・高麗市
場・鶴橋卸売市場・鶴橋本通鶴進会・御幸通商店街と大きく6つの市場に分けられており、
通称「つるしん」と呼ばれる「鶴橋商店街振興組合」がメインストリートになります。
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鶴橋駅
鶴橋駅~環状線で天王寺駅~大和路快速で王子駅へ
王寺駅~バスで自宅もよりの停留所へ
停留所~高速度呂の裏道で・・・
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