11月21日の吹田アサヒビール工場見学下見-1
11月26日 11月21日の吹田アサヒビール工場見学下見-1
12月17日の歩こう会納会ビールで乾杯
12月17日の工場見学の予約は既に取得済だったが、周辺の散策場所も含めて最終
確認の為・M吉さん・K場さんと3名で集合場所の確認や吹田市役所訪問し当日の
トイレ使用やパンフレットの調達、泉殿神社等も訪問して色々お願いして・・・
アサヒビール工場見学・ビールでほろ酔い気分&17日段取り等確認してJR吹田駅
近くの食堂で昼食休憩して此の日の私の万歩計は、14196歩で約8.5㎞歩いた・・
阪急吹田駅西口前
像の親子が見守る公園・・安心安全見守るゾウ
集合場所候補、トイレは市役所1Fのトイレを借りるなど
市役所訪問
観光パンフレットを頂く、当日トイレを貸して貰うお願い
線路の下、地下道を潜って
泉殿宮(いづどのぐう)・・・HPより
昔から吹田の氏神さまとして農耕の神をお祀(まつ)りしていました。
貞観11年(869)干ばつ続きで、苦しんでいた処、新たに須佐之男大神に祈る
と境内から泉が湧き出て難を逃れたことから厄除開運の御利益がございます。
泉殿霊泉
詳細は
当宮往古は、次田ノ社と称え奉り、河内の次田連の祖神 天香山命を氏神として、
五穀の神「宇迦之御魂大神(うがのみたまのおおかみ)」[伏見稲荷大社の御祭
神]を祀(まつ)る。第56代清和天皇貞観(じょうがん)11年(西暦869年)
当地久しく旱魃(かんばつ)、草木は色を変じ、大河の流れも通わず、天下疫病
流行し、諸民悉(ことごと)く枯渇(こかつ)に苦しむ。播磨(姫路)の広峯神
社より王城鎮護(おうじょうちんご)の守り神として[祇園八坂神社]の御祭神と
して迎えられる「建速須佐之男大神」(たけはや すさのお の おおかみ)]の御神
輿が、しばらく当宮にお立ち寄りになられた。大神に祝詞を奏上し、獅子頭を激
しく振り、歎きを告げ、篤(あつ)く雨を祈ると、忽然と清泉土中より湧漲(ゆ
うちょう)した。立ち処に、里人渇(かつ)を免(まぬ)がれ、田畑隈(くま)
なく潅水(かんすい)した。よって、建速須佐之男大神を勧請し相殿として斎き
祀る。この雨乞いの状と雨を喜ぶ童子の姿は、吹田市地域無形民俗文化財の「泉
殿宮神楽獅子(いづどのぐうかぐらじし)」の所作となっている。
明治22年(西暦1889年)、「泉殿霊泉」をドイツのミュンヘンに送り、これビー
ル醸造(じょうぞう)に適水との保証を得、当宮隣接地に同水系の湧水を以って、
東洋初のビール醸造工場(現、アサヒビール㈱吹田工場)建設の逸話がある。そ
の後、近隣の都市化に伴い上水道は普及し、又、かつての広々とした水田が殆ど
姿を消したのを見届けるかのように、霊泉は地中奥深くに水脈を移し、今は、湧
水していない。
当宮は、国家権力の保護を求めない庶民信仰に支えられたる諸社にして、創祀以
来、氏子の信倚のもと、代々藤原姓南家「宮脇家」祀職を奉仕するところ、天保
8年(西暦1837年)大塩平八郎義兵の挙あり、当宮第32代宮司・宮脇志摩は、大
塩平八郎の叔父に当たり、乱の主謀者として寺社方捕手役人の囲みに、この地に
て切腹。課刑峻烈(かけいしゅんれつ)にして、男児悉く遠島、家門闕所となり、
社運も傾くかに見えたが、明治維新と共にその義挙を認められ、流刑地に生存の
遺児総て赦免・出島仰せ付けられ、家門再興、宮脇志津摩(しづま)・泉殿宮第
33代宮司を嗣(つ)ぎ、社運再び赫赫(かくかく)として今に到る。
昭和45年「人類の進歩と調和」をテーマに開催された日本万国博覧会会場建設の地
鎮祭(じちんさい)・立柱祭(りっちゅうさい)等、一連の祭典は、当宮宮司が斎
主(さいしゅ)をお仕え申し上げた。祭儀に使用された元柱(もとつはしら)[木曽
50年杉]は、当宮に奉建され無事成功を祈念してきた。 日本万国博が掲げた「科
学の進歩と人間尊重の精神」が、永く受け継がれるよう、境内に祀られている。
泉殿宮の並びにアサヒビール工場はあるのだが
道路を渡って対面に鎮座する片山神社へ行って見る
片山神社・豊川稲荷&干支稲荷
片山神社(かたやまじんじゃ)・・・HPより
大和時代から平安時代にかける、その昔、この地より千里に至る一帯が丘陵地に
なっており、良質の粘土が多量に出土し、その頃の人達は「須恵器」や「瓦」を
作り、生計をたてていた。
この窯焼きは大陸文化によるもので、大和朝廷(4世紀・西暦300年頃)が誕生
の頃から食器類や屋根瓦の需要が高まり、その時代の成長産業であった。
この地で生産される須恵器は、質の良さから生産も相当なものであったらしい、
そして平安京(8世紀・西暦800年頃)が遷都された頃には屋根瓦も需要も最高に
達し活気あふれる産業地域であった。しかし、平安時代が過ぎると、これらの産
業も斜陽の一途をたどり、ついには廃窯となり以後、この地は農耕へと移行して
いった。この歴史を実証する50基余の《登窯》が発掘されている。
その頃、この地で焼き物に携わる人達が【陶芸の祖神】であり、方除け・災難除け
・火防の守護神である素盞烏尊(すさのおのみこと)を祀り崇敬を集めていたのが、
当神社の創始と思われる。当神社は、天正の御代(室町・安土桃山時代 西暦150
0年頃)の兵火と大正3年の2回、建造物一切が焼失され、古文書等が存在していな
ので、建立ならび由緒等については不明である。
11時~アサヒビール吹田工場の
見学を予約してるので道路を渡って工場へ
アサヒビール吹田工場
アサヒビール発祥の地として、100年以上の歴史を持つ吹田工場では、近畿エリア
にお届けするビールを作っています。工場見学は無料でお楽しみいただけ、できた
ての生ビールも3杯まで試飲出来ます。
工場に入るとアサヒビール吹田工場のシンボリックな存在である煉瓦壁が現れます。
明治22年(1889年)にアサヒビールの前身である大阪麦酒会社が創立され、明治2
4年に吹田村醸造所が完成したそうで、なんと平成元年(1989年)までの100年間
にわたり現存していた同工場ですが、こうして外壁の一部が移築保存されています。
アサヒビールの歴史そのものであるこのレンガの壁をぜひご覧ください!!
工場の建物の中へ入る
さー
工場見学へ
工場見学途中
此の続きは、
11月21日の吹田アサヒビール工場見学下見-2 として
下記のメインブログへ詳細を投稿します。
https://taharas-amami-nara.blog.ss-blog.jp/
続きは、工場見学途中(アサヒビールの誕生 パネル展示)~ について
工場見学途中(アサヒビールの誕生 パネル展示)
世界各国のビール缶やビール瓶コレクションを見た後
試飲会場です。
一杯目は氷点下(—2.2度)スーパードライ
二敗目は黒ビール
試飲会場を後に
12月17日の段取りを打ち合わせて
ショップでお土産を購入して外へ
JR吹田駅へ向かう
JR吹田駅
12月17日の歩こう会納会ビールで乾杯
12月17日の工場見学の予約は既に取得済だったが、周辺の散策場所も含めて最終
確認の為・M吉さん・K場さんと3名で集合場所の確認や吹田市役所訪問し当日の
トイレ使用やパンフレットの調達、泉殿神社等も訪問して色々お願いして・・・
アサヒビール工場見学・ビールでほろ酔い気分&17日段取り等確認してJR吹田駅
近くの食堂で昼食休憩して此の日の私の万歩計は、14196歩で約8.5㎞歩いた・・
阪急吹田駅西口前
像の親子が見守る公園・・安心安全見守るゾウ
集合場所候補、トイレは市役所1Fのトイレを借りるなど
市役所訪問
観光パンフレットを頂く、当日トイレを貸して貰うお願い
線路の下、地下道を潜って
泉殿宮(いづどのぐう)・・・HPより
昔から吹田の氏神さまとして農耕の神をお祀(まつ)りしていました。
貞観11年(869)干ばつ続きで、苦しんでいた処、新たに須佐之男大神に祈る
と境内から泉が湧き出て難を逃れたことから厄除開運の御利益がございます。
泉殿霊泉
詳細は
当宮往古は、次田ノ社と称え奉り、河内の次田連の祖神 天香山命を氏神として、
五穀の神「宇迦之御魂大神(うがのみたまのおおかみ)」[伏見稲荷大社の御祭
神]を祀(まつ)る。第56代清和天皇貞観(じょうがん)11年(西暦869年)
当地久しく旱魃(かんばつ)、草木は色を変じ、大河の流れも通わず、天下疫病
流行し、諸民悉(ことごと)く枯渇(こかつ)に苦しむ。播磨(姫路)の広峯神
社より王城鎮護(おうじょうちんご)の守り神として[祇園八坂神社]の御祭神と
して迎えられる「建速須佐之男大神」(たけはや すさのお の おおかみ)]の御神
輿が、しばらく当宮にお立ち寄りになられた。大神に祝詞を奏上し、獅子頭を激
しく振り、歎きを告げ、篤(あつ)く雨を祈ると、忽然と清泉土中より湧漲(ゆ
うちょう)した。立ち処に、里人渇(かつ)を免(まぬ)がれ、田畑隈(くま)
なく潅水(かんすい)した。よって、建速須佐之男大神を勧請し相殿として斎き
祀る。この雨乞いの状と雨を喜ぶ童子の姿は、吹田市地域無形民俗文化財の「泉
殿宮神楽獅子(いづどのぐうかぐらじし)」の所作となっている。
明治22年(西暦1889年)、「泉殿霊泉」をドイツのミュンヘンに送り、これビー
ル醸造(じょうぞう)に適水との保証を得、当宮隣接地に同水系の湧水を以って、
東洋初のビール醸造工場(現、アサヒビール㈱吹田工場)建設の逸話がある。そ
の後、近隣の都市化に伴い上水道は普及し、又、かつての広々とした水田が殆ど
姿を消したのを見届けるかのように、霊泉は地中奥深くに水脈を移し、今は、湧
水していない。
当宮は、国家権力の保護を求めない庶民信仰に支えられたる諸社にして、創祀以
来、氏子の信倚のもと、代々藤原姓南家「宮脇家」祀職を奉仕するところ、天保
8年(西暦1837年)大塩平八郎義兵の挙あり、当宮第32代宮司・宮脇志摩は、大
塩平八郎の叔父に当たり、乱の主謀者として寺社方捕手役人の囲みに、この地に
て切腹。課刑峻烈(かけいしゅんれつ)にして、男児悉く遠島、家門闕所となり、
社運も傾くかに見えたが、明治維新と共にその義挙を認められ、流刑地に生存の
遺児総て赦免・出島仰せ付けられ、家門再興、宮脇志津摩(しづま)・泉殿宮第
33代宮司を嗣(つ)ぎ、社運再び赫赫(かくかく)として今に到る。
昭和45年「人類の進歩と調和」をテーマに開催された日本万国博覧会会場建設の地
鎮祭(じちんさい)・立柱祭(りっちゅうさい)等、一連の祭典は、当宮宮司が斎
主(さいしゅ)をお仕え申し上げた。祭儀に使用された元柱(もとつはしら)[木曽
50年杉]は、当宮に奉建され無事成功を祈念してきた。 日本万国博が掲げた「科
学の進歩と人間尊重の精神」が、永く受け継がれるよう、境内に祀られている。
泉殿宮の並びにアサヒビール工場はあるのだが
道路を渡って対面に鎮座する片山神社へ行って見る
片山神社・豊川稲荷&干支稲荷
片山神社(かたやまじんじゃ)・・・HPより
大和時代から平安時代にかける、その昔、この地より千里に至る一帯が丘陵地に
なっており、良質の粘土が多量に出土し、その頃の人達は「須恵器」や「瓦」を
作り、生計をたてていた。
この窯焼きは大陸文化によるもので、大和朝廷(4世紀・西暦300年頃)が誕生
の頃から食器類や屋根瓦の需要が高まり、その時代の成長産業であった。
この地で生産される須恵器は、質の良さから生産も相当なものであったらしい、
そして平安京(8世紀・西暦800年頃)が遷都された頃には屋根瓦も需要も最高に
達し活気あふれる産業地域であった。しかし、平安時代が過ぎると、これらの産
業も斜陽の一途をたどり、ついには廃窯となり以後、この地は農耕へと移行して
いった。この歴史を実証する50基余の《登窯》が発掘されている。
その頃、この地で焼き物に携わる人達が【陶芸の祖神】であり、方除け・災難除け
・火防の守護神である素盞烏尊(すさのおのみこと)を祀り崇敬を集めていたのが、
当神社の創始と思われる。当神社は、天正の御代(室町・安土桃山時代 西暦150
0年頃)の兵火と大正3年の2回、建造物一切が焼失され、古文書等が存在していな
ので、建立ならび由緒等については不明である。
11時~アサヒビール吹田工場の
見学を予約してるので道路を渡って工場へ
アサヒビール吹田工場
アサヒビール発祥の地として、100年以上の歴史を持つ吹田工場では、近畿エリア
にお届けするビールを作っています。工場見学は無料でお楽しみいただけ、できた
ての生ビールも3杯まで試飲出来ます。
工場に入るとアサヒビール吹田工場のシンボリックな存在である煉瓦壁が現れます。
明治22年(1889年)にアサヒビールの前身である大阪麦酒会社が創立され、明治2
4年に吹田村醸造所が完成したそうで、なんと平成元年(1989年)までの100年間
にわたり現存していた同工場ですが、こうして外壁の一部が移築保存されています。
アサヒビールの歴史そのものであるこのレンガの壁をぜひご覧ください!!
工場の建物の中へ入る
さー
工場見学へ
工場見学途中
此の続きは、
11月21日の吹田アサヒビール工場見学下見-2 として
下記のメインブログへ詳細を投稿します。
https://taharas-amami-nara.blog.ss-blog.jp/
続きは、工場見学途中(アサヒビールの誕生 パネル展示)~ について
工場見学途中(アサヒビールの誕生 パネル展示)
世界各国のビール缶やビール瓶コレクションを見た後
試飲会場です。
一杯目は氷点下(—2.2度)スーパードライ
二敗目は黒ビール
試飲会場を後に
12月17日の段取りを打ち合わせて
ショップでお土産を購入して外へ
JR吹田駅へ向かう
JR吹田駅
2019-11-26 00:42
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