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9月16日の大和の古道を通りホテイアオイ鑑賞-1

9月21日         9月16日の大和の古道を通りホテイアオイ鑑賞-1
                   近鉄ハイキング 大和三山 10㎞
此の日は、知人のK場さん・I 田さん・O村さんが友達と一緒に来て5名で近鉄ハイク参加。
コースは  近鉄ハイキング 大和三山 
大和八木駅(10時集合)~耳成山~八木札の辻交流館~今井町~神武天皇陵~畝傍山
~橿原神宮~本薬師寺跡(ホテイアオイ鑑賞)~畝傍御陵前駅(ゴール)だったが少し変え、
今井町の前に入鹿神社・正蓮寺~今井町~畝傍御陵前駅前・餃子の王将で昼食~神武
天皇陵~橿原神宮~橿原観光ホテル(はにわ饅頭)~橿原神宮前駅(ゴール・解散)となり
ホテイアオイに大満足、其れに、はにわ饅頭も買え、私の万歩計は、25206歩で約15.1km
歩いたことに・・・
志都美駅
曇り空で葛城山がよく見えない
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香芝駅~近鉄下田駅へ乗り換えへ
鹿島神社
祀ってあるのは、「武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)」で、ふつう「鹿島大明神(か
しまだいみょうじん)」という。この神社は、承安(しょうあん)1(1172 )年に源義朝(みな
もとのよしとも)の家来であった鎌田小次郎政光が常陸国(ひたちのくに)(現茨城県)の
鹿島本宮の神を連れてきたのが始まりという記録がある。伝承ではその時村人は塩餅
(しおもち)や押し飯(おしめし)を作り、大喜びでお祭りしたという。
鹿島神社には、昔から「結鎮座」(けいちんざ)と呼ばれる氏子(うじこ)の集団(宮座)が
あり、鎌倉時代の初期から記録が残されている。これは、約800年間にわたる独特の伝
統をもって今も生き続けている。日本の古い神社や寺には貴重な古文書がたくさん伝
わっているが、民間の宮座記録としてはこの「鹿島神社文書」(かしまじんじゃもんじょ)
が最も古い。昭和37年には奈良県指定文化財となり、現在は奈良国立博物館で保管
されている。
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下田駅~
大和八木駅(10時集合)
耳成山へむかう
正面に耳成山
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秋近し?耳成山
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耳成山と耳成山山口神社の鳥居
今日は此処まで
耳成山(みみなしやま)
耳成山は、奈良盆地の南部に位置する奈良県橿原市にある山。山の標高は139.6m
だが、山頂にある三角点の標高は139.2mで、天香久山、畝傍山とならんで大和三山
の一つをなし、最も北に位置する。歴史的風土特別保存地区と国の名勝に指定され
ている。この山は第三紀に噴出した火山岩が侵食されてその一部のみが残存した侵
食地形である。瀬戸内火山帯に属する独立峰であり、安山岩より形成される。
天然の山ではなく、古代に造営された上円下方墳との説がある。大和三山が二等辺
三角形をなし、かつその事実が古くより知られていた事、古事記や日本書紀において
古い時代の記述が無く、ようやく日本書紀において允恭天皇の時代以降に記述が見
られる事が根拠として提示される。その規模の大きさから全くのゼロから造営された
古墳でなく、既存の天然山を改造したという説もあり、火山と見られるのに噴火口が
無い事から、噴火口を埋めるなどの造成をした(その際に大和三山の山頂が二等辺
三角形をなすように調整された)とも考えられている(もちろん上述の通り、火山岩が
侵食された侵食地形というのが通説である)。かつては天神山とも呼ばれ天神山城
があったとされる。南麓の池は木原古池遺跡、北西には木原環濠がある。
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耳成山口神社(みみなしやまぐちじんじゃ)
耳成山口神社は、奈良県橿原市の耳成山(大和三山)にある神社。「山口神社」とある
が山麓ではなく山の八合目程の位置にある。大和国の山口社六社(飛鳥・石村・畝火・
忍坂・長谷・耳成)のうちの1社で、皇室の舎殿用材を切り出す山の神として祀られてい
た。また、同境内には金刀比羅神社・稲荷神社・白龍大神も祀られている。祭神は、高
皇産霊神(高御産巣日神、たかみむすびのかみ)、大山祗神(おおやまみつのかみ)
創建は定かではないが、古くは『正倉院文書』の正税帳の730年(天平2年)に天皇より
稲を給わったことや、『延喜式神名帳』に大社として月次祭・新嘗祭を仰せつかったと
の記載がある。また、806年(大同元年)や859年(貞観元年)9月などに、天皇の遣使
によって雨乞いの神事が行われたと記録が残っている。
1651年(慶安4年)、山之坊の村民が神木を伐り荒らしたことを切っ掛けに神社を中心
にした山の管理や所有争論が起こり、1702年(元禄15年)、「耳無山天神ハ式内之社
耳無山口神社」とすることで決着した。その後、山之坊の村民は神霊を山之坊山口神
社に遷座している。 この間、建物が焼失するなど荒廃していたが、1748年(寛延元年)
8月、耳成村の氏子らが現在に残る本殿と拝殿を再建し、石原田・木原・葛本・新賀・常
磐・山之坊地区の氏神として祀られている。
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木原古池
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八木札の辻交流館・・・橿原市HPより
市指定文化財「東の平田家(旧旅籠)は、平成24年7月14日より、八木札の辻交流館
として開館しました。建物の見学は無料です。2階を貸室としてご利用いただけます。
1階土間部分には、休憩していただけるようベンチとお茶を用意しております。
八木のまちを散策する拠点としてぜひご利用ください。
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接待場跡(せんたいばあと)・・・橿原市観光協会HPより
江戸時代、民達が集団的に参拝する「おかげ参り」が大流行し、大和、伊勢沿いでは
八木が最大の宿場町として接待連中が組織され「センタイバ」において湯茶や食事の
接待を行い、宿の世話をしました。
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入鹿神社へ向う
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横大路と太神宮灯籠(だいじんぐうとうろう)・・・橿原市観光協会HPより
横大路そいに有ります。200m東の「接待場跡」にあった灯籠を近年移設し、本来の方
位から45度傾けて設置されました。明和8年(1771年)の銘があり、「おかげ参り」が大流
行した年です。
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入鹿神社・正蓮寺 大日堂
入鹿神社・・・蘇我入鹿公を御神体とする神社
入鹿神社は廃寺真言宗高野山派仏起山普賢寺の東南部の一段高い所に西に向かって
建ち、もとは同寺の鎮守社であったと伝えられる。祭神はスサノオノミコトと蘇我入鹿の両
柱を合祀しています。現在の橿原市周辺は蘇我氏のゆかりの地であり、「蘇我」、「曽我」
といった地名も残っています。
神社の伝えによると、乙巳の変(645年6月12日)で蘇我入鹿が飛鳥板蓋宮で中大
兄皇子や中臣鎌足らに倒された時、その首が小網町(しょうこうちょう)に飛んで来
たのを祀ったと言われている。入鹿は首を斬られたので、入鹿神社が首から上の
病に霊験あらたかと言う信仰がある。頭痛になやむ人々には同情的で頭痛に霊験
あらたかな入鹿神社として知られている。
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※入鹿神社の伝説 (橿原市小綱町)
蘇我入鹿が鶏鳴を合図に首をはねられたので、昔は小綱では鶏を飼わなかったといわれ
る。また、小綱で生れたものは多武峯へ参ると腹痛が起るといわれ、また、高市郡明日香
村の小原は藤原鎌足の母の出世地だというので、小綱と小原は縁組しないといわれた。

正蓮寺 大日堂
正蓮寺大日堂は廃寺真言宗高野山派仏起山普賢寺の本堂で、普賢寺の創建年代につ
いては全く明らかにすることはできないが、その建立年代は棟札により文明10年(1478)
の上棟であることが分かっている。
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今井町へ向かう
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今井町
かつて「大和の金は今井に七分」といわれるほど繁栄した今井町。
現在も町の大半の町家が大切に保存され、江戸時代の姿を残しています。
江戸時代のまま残され、時代劇の撮影などにも使われる町並みは、世界的に貴重な
財産であり、平成5年には「重要伝統的建造物群保存地区」の選定を受けています。
東西約600m、南北約310m、面積にして17.4haの地区内には、全建物数約1500棟
弱のうち、約500棟の伝統的建造物があり、全国で最も多い地区となっています
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順明寺(じゆんみょうじ)
順明寺は、旧北町、北尊坊通りの西端にある浄土真宗本願寺派の寺院で、北の御堂と
もよばれています。屋根は降り棟(くだりむね)の付いた切妻造で、千鳥破風(ちどりは
ふ)に猪の目懸魚(いのめけぎょ)が付いています。板扉には入八双金具(いりはっそう
かなぐ)が付き、両開きとなっています。建立年代についての確証はありませんが、文
献によると表門は1638年(寛永15)の建立であることが窺われます。扉以外はすべて
建立当初の材を残している、貴重な門です。1217年(建保5年)に照意房順明が十市
郡新賀庄に創始して、1626年(寛永3年)に現在地に移したと言われています。
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称念寺称念寺(しょうねんじ)
稱念寺は、浄土真宗本願寺派に属し、今井御坊とも南之御堂とも呼ばれている。現在
の今井町は、この寺の境内地を中心として発達した寺内町である。寺の草創は室町末
期の天文年間織田信長が誕生したあたりで、本願寺の一家衆今井兵部卿豊寿がここ
に本願寺の道場を建てたのに始まる。豊寿ならびに二代鶴寿は今井道場を自坊とした
が、本願寺の与力や本願寺の支城、我孫子の城主をも兼ねていた。
彼の石山合戦の折、天正三年(1575年)には本願寺の和議の使者のひとりとして兵部
も織田信長の元に赴いている。今井道場が今井御坊稱念寺となるのは文禄年間(159
2~1595年)で富綱のときで、時は丁度秀吉が朝鮮征伐に赴くそのあたりである。
今井氏は代々兵部と名乗り、織田・豊臣・徳川氏に仕えて武士と僧侶を兼帯し、なかん
ずく秀吉の頃には堺住吉郡の代官や大阪城の普請奉行の要職についている。
しかし延宝七年(1679年)には武士を返上して釈門に帰り、以後は大和の真宗寺院を
統轄していた五カ所御坊、十六大坊の中心寺院として幕末まで中本山的な役割を果た
している明治十年(1877年)二月には明治天皇が二夜三日駐泊された。明治天皇は、
二月十二日熊本城危機の知らせのために大阪道明寺に向かわれ、御一泊の後堺に
向け御進発遊ばされた。西南の戦争の始まりであった。
平成十四年(2002年)五月二十三日、本堂、国の重要文化財に指定される。
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今井まちなみ交流センター華甍
奈良県指定文化財・旧高市郡教育博物館。今井町旧環濠外の東南部にある。2階建の
本館を中央に配し、両側に左右対称に翼廊がある。明治36年に建設された博物館であ
るが、昭和初年より約30年間今井町役場として使用されていた。外観は大和にふさわし
く、和風的にまとめた県下では数少ない明治建築である。江戸時代の町並を残す、今井
町の町並みについての展示コーナー、映像シアターまた情報提供の図書室等がある。
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高市御縣神社(たけちのみあがたじんじゃ)
創祀年代は不詳だが、社伝によると成務天皇の御代に創立。 式内社・高市御縣神社
に比定されている古社で、高市県主に任ぜられた天津彦根命の後裔が祖神を祀った
神社。 大和には、幾つかの「御県に坐す神」が祀られている。延喜式では、高市、葛木、
十市、志貴、山辺、曽布の六社でその中の第一位。
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畝傍御陵前駅前 餃子の王将で昼食
本薬師寺跡周辺のホテイアオイへ
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本薬師寺跡(ホテイアオイ鑑賞)
ホテイアオイ
このホテイアオイは、米の生産調整の一環として休耕水田(面積約1.4ha)を利用して本
薬師寺跡(橿原市城殿町)周辺で栽培されているもので、約14,000株を毎年6月末頃に
「橿原市立畝傍北(うねびきた)小学校」の2年生の皆さんに御協力を頂き植え付けます。
花は8月下旬に見頃を迎え9月下旬にかけて咲き誇ります。その涼しげなすみれ色の花
は、素朴な農村景観に艶やかな風情を醸し出し、本薬師寺跡や大和三山(特に畝傍山、
香具山)の景観に溶け込んで、訪れる方々を大いに楽しませています。
ホテイアオイは葉柄(ようへい:茎の根元)の中央部がふくれ、これが浮き袋の役割をし
ています。名前の由来は、この姿を七福神の一人「布袋様(ほていさま)」のお腹に例え
たものです。蕾(つぼみ)が朝の太陽の日ざしにより花開き、夜になると萎んで、翌朝に
また新しい蕾が花開きます。特に日ざしが強い日は開花が多いようです。また、朝開花
した花は夜には萎んでしまうことから、水田一面に咲いていた翌日にはまったく咲いてい
ないこともあります。
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此の続きは、
9月16日の大和の古道を通りホテイアオイ鑑賞-2 として
           下記のメインブログへ詳細を投稿します。
         https://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
此の続きも、本薬師寺跡周辺のホテイアオイ鑑賞~
ホテイアオイ
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※畝傍山(うねびやま)・・・此の日は元薬師寺跡から眺めるだけ
畝傍山は、天香久山、耳成山と共に大和三山と呼ばれ、2005年(平成17年)には他の
2山と共に国の名勝に指定された。標高は198.8mと三山の中では最も高い。ただし、
山頂に有る三等三角点の標高は198.49mである。歴史的風土特別保存地区にも指定
されている。畝傍とは「火がうねる」の意味で有る。田の畝のようにくねくねした尾根を多
く持つことから名付けられたとも云われる。山頂への登山口は、東麓の橿原神宮側と、
西麓の畝傍山口神社側が有る。山頂からは天香久山や耳成山の他、遠く若草山なども
眺望する事が出来る。
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本薬師寺跡
本薬師寺は西暦680年(天武9)、天武天皇(てんむてんのう)が皇后(後の持統天皇)の
病気が治ることを祈願(きがん)して発願(ほつがん)した寺で、西暦698年にほぼ完成、
藤原京の四大寺の1つに数えられています。伽藍配置(がらんはいち)は、金堂の前面に
東西2つの塔を配置した薬師寺式(やくしじしき)と呼ばれる伽藍配置で、現在、西ノ京に
ある薬師寺と同じ伽藍配置となっています。また寺域(じいき)は、藤原京の右京八条三
坊の全域が寺域であり、造営に当たっては、寺域を東西に分けていた西三坊坊間路を
埋め立てたことがわかっています。
本薬師寺は、平城京遷都に伴い奈良に移りますが、建物や三尊(さんぞん)の仏像も全
て平城京に移ったのかという点が長い間、問題となっていました(薬師寺論争)。発掘調
査の結果、1.金堂や塔の規模や配置は平城京の薬師寺と変わらない、2.裳階(もこし)
の礎石は残っていないが、小さな軒瓦などが出土していることから、金堂・塔ともに裳階
付きの建物であったこと、3.奈良・平安時代の瓦が出土したことから、伽藍は修理され
つつ、平安時代まで存続したこと、4.創建(そうけん)時に葺かれた瓦が大量に出土した
こと、が明らかとなりました。つまり、平城京の薬師寺は、藤原京の薬師寺(本薬師寺)を
移築したものではなく、本薬師寺に倣(なら)って造られたことが確定したのです。しかし、
本薬師寺の三尊がどのようなものであったのかは依然、不明のままです。
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神武天皇陵へ向かう
※綏靖天皇陵(すいぜいてんのうりょう)・・・今回は行かなかった
第2代天皇(在位:綏靖天皇元年1月8日 - 綏靖天皇33年5月10日)。和風諡号は、『日本
書紀』では「神渟名川耳天皇(かんぬなかわみみのすめらみこと)」、『古事記』では「神沼
河耳命」。神武天皇(初代天皇)の皇子。『日本書紀』『古事記』とも系譜の記載はあるが事
績の記述は少なく、いわゆる「欠史八代」の1人に数えられる。 『日本書紀』によると、神渟
名川耳尊は神武天皇42年1月3日に立太子した。神武天皇76年3月11日に父天皇が崩御
した際、朝政の経験に長けていた庶兄の手研耳命(たぎしみみのみこと)は、皇位に就くた
め弟の神八井耳命・神渟名川耳尊を害そうとした。己卯年11月、この陰謀を知った神八井
耳・神渟名川耳兄弟は、神武天皇の山陵を築造し終えると、弓部稚彦に弓を、倭鍛部の天
津真浦に鏃を、矢部に箭を作らせた。そして片丘(奈良県北葛城郡王寺町・香芝町・上牧町
付近か)の大室に臥せっていた手研耳を襲い、これを討った。この際、神八井耳は手足が震
えて矢を射ることができず、代わりに神渟名川耳が射て殺したという。神八井耳はこの失態
を深く恥じたため、神渟名川耳が皇位に就き、神八井耳は天皇を助けて神祇を掌ることと
なった。 翌年(神武崩御の4年後;綏靖天皇元年)1月8日に即位し、宮を葛城高丘宮に遷し
た。その後、綏靖天皇33年5月10日に在位33年にして崩御した。時に『日本書紀』では84
歳、 『古事記』では45歳という。安寧天皇元年10月11日、遺骸は「桃花鳥田丘上陵」に・・・・
伝承:南北朝時代の編とされる『神道集』によれば、綏靖天皇には食人の趣味があり、朝夕
に7人もの人々を食べて周囲を恐怖に陥れたため、人々は「近く火の雨が降る」との虚言を
弄し、天皇を岩屋に幽閉して難を逃れたという。

神武天皇陵(じんむてんのうりょう)
初代天皇とされる神話・伝説上の人物(在位:神武天皇元年1月1日 - 神武天皇76年3月
11日)。和風諡号は、『日本書紀』では「神日本磐余彦天皇(かんやまといわれひこのすめ
らみこと)」、『古事記』では「神倭伊波礼毘古命」。また幼名は「狭野尊(さののみこと)」、
諱は「彦火火出見(ひこほほでみ)」。日本皇統の祖としている。神武天皇の即位月日とさ
れる1月1日(旧暦)は、明治に入り新暦に換算され、2月11日となり、日本国の建国の日と
して1873年(明治6年)に「紀元節」(祭日)と定められた。紀元節は1948年(昭和23年)に
廃止されたが、1967年(昭和42年)に「建国記念日」として国民の祝日となった。
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橿原神宮へ向かう
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橿原神宮
橿原神宮は、畝傍山の東南の橿原市久米町に位置している。東征によって大和を平定し
た神日本磐余彦尊かむやまといわれひこのみことは、この橿原の地に宮を建てて、初代
神武天皇として即位したと伝えられている。その宮址に新しく神社を建てて神武天皇とそ
の皇后の姫蹈鞴五十鈴姫命ひめたたらいすずひめのみことを祭神として祀ったの は、わ
ずか120年ほど前の明治23年(1890)である。日本最古の正史ともされる『日本書紀』に
おいて、日本建国の地と記された橿原。天照大神あまてらすおおかみの血を引く神倭伊
波禮毘古命かむやまといわれびこのみこと(後の神武天皇)が、豊かで平和な国づくりを
めざして、九州高千穂の宮から東に向かい、想像を絶する苦難を乗り越え、畝傍山うねび
やまの東南の麓に橿原宮を創建されました。第一代天皇として即位されたのが紀元元年、
今からおよそ2,600余年前のことです。日本の歴史と文化の発祥の地でもある橿原は、日
本の原点です。
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橿原観光ホテル(はにわ饅頭)
橿原市のお土産に大人気?の「はにわ饅頭」を初めて購入、結構おいしかった

橿原神宮前駅(ゴール・解散)
橿原神宮前駅前の幸せの黄色いポスト
奈良県橿原市は、宮崎市との姉妹都市盟約締結50周年を記念し、近鉄橿原神宮前駅
中央口前に、幸せを願う黄色いポストを設置した。「思いを届けたい時にご利用を」と呼び
かけている。宮崎市青島は神武天皇ゆかりの地であり、橿原市は神武天皇が橿原宮を開
いた場所とされる。こうした両市は昭和41年2月に姉妹都市の盟約を締結した。これを機
に橿原市は、縁結びの神様として知られる青島神社(宮崎市青島)近くの青島海岸に設置
され、人気を集めている「幸せの黄色いポスト」に着目した。
橿原郵便局の協力を得て2016年10月、黄色いポストを設置した。
※天孫降臨の地とされる宮崎県高千穂町にも黄色いポストがあるが、奈良県内では初め
ての登場となった。ポスト横の説明板には「あなたの大切な人にその思いを届けたい時、
ぜひ、このポストをご利用いただければ幸いです」との市長のメッセージが・・・
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